「正しさ」への依存 — 道徳的正しさが自己目的化するとき
はじめに — 正しさの快楽
SNSのタイムラインを眺めていると、ある種のパターンに気づきます。誰かの「間違い」を指摘し、「正しい」立場から批判する。差別的な発言を見つけて糾弾する。無知を嘲笑い、啓蒙する。こうした行為は、確かに正義の実現に寄与することがあります。しかし同時に、そこには一種の快楽が伴っていないでしょうか。
「正しさ」そのものが快楽の源泉になる — この現象は、現代社会に特有の「依存」の形態として分析する価値があります。道徳的に正しい立場に立つことの気持ちよさ。他者の誤りを指摘する優越感。集団のなかで「正しい側」に属する安心感。これらが依存的な行動パターンを形成するとき、「正しさ」は目的を失い、自己目的化します。
ニーチェの道徳系譜学 — 道徳的優越の快楽
ニーチェは『道徳の系譜学』で、道徳感情の裏に潜む権力への意志を暴きました。彼の分析によれば、道徳的な「善」の起源には、他者を「悪」と名づけることで得られる優越感があります。
ニーチェは「禁欲的僧侶」の心理を分析しています。禁欲的僧侶は、自分の禁欲と自己犠牲を通じて道徳的に優れた存在であることを確認し、世俗的な人々を見下すことで満足を得ます。この構造は、現代の「正しさへの依存」と驚くほど類似しています。
SNS上で他者の「正しくなさ」を指摘する行為は、告発者を道徳的に優越した位置に据える機能を果たします。そして、この優越の快楽は中毒性を持ちます。一度その快楽を味わうと、新たな「間違い」を探し、新たな告発の対象を求めるようになる。これが「正しさへの依存」のメカニズムです。
キルケゴールの三段階 — 倫理的段階の罠
キルケゴールは人間の実存を三つの段階 — 美的段階、倫理的段階、宗教的段階 — で描きました。倫理的段階の人間は、道徳的義務と責任に生きています。社会のルールを守り、正しい行いをし、義務を果たすことに人生の意味を見出します。
しかしキルケゴールは、倫理的段階には限界があることを指摘しました。倫理的な人間は「正しさ」のなかに安住しようとしますが、やがて自分の力では完全に正しくあることは不可能だという絶望に直面します。この絶望を受け入れたとき、宗教的段階への「跳躍」が起こるのです。
現代の「正しさへの依存」は、キルケゴールの分析に照らせば、倫理的段階に固着した状態と言えるかもしれません。自分の不完全さを認められず、「正しさ」にしがみつくことで不安を解消しようとする。しかし完全な正しさは達成不可能であるため、依存はエスカレートし続けるのです。
フーコーの告白の系譜学 — 自己開示と権力
フーコーは、西洋社会における告白の実践を権力の視点から分析しました。キリスト教の告解から精神分析の自由連想まで、自分の内面を告白し、真理を語ることを求められる文化のなかで、「正しいことを言う」行為そのものが権力と結びついています。
SNS時代の「正しさ」の表明は、フーコーの言う告白の実践に似ています。自分の政治的立場を公に表明し、「正しい側」に立っていることを証明する。この行為は自発的に見えますが、実際には社会的承認を得るための圧力によって駆動されています。「正しい意見」を表明しない者は、暗黙のうちに「間違った側」に分類されるリスクを負うからです。
「真理の勇気」との違い
フーコーは晩年の講義で、古代ギリシアの**パレーシア(真理の勇気ある発言)**を分析しました。パレーシアは、自分にとってリスクのある真理を語ることです。権力者に向かって真実を告げる行為には、勇気が伴います。
これに対して、SNS上での「正しさ」の表明は、多くの場合リスクを伴わない。むしろ、多数派の「正しい」意見に同調することで社会的承認を得る行為です。フーコー的に言えば、これはパレーシアの対極 — 追従(コラキア) — に近いのです。
プラグマティズムの真理観 — 固定された正しさへの抗い
プラグマティズムの哲学者たちは、真理を固定された対応関係ではなく、探究の過程で暫定的に得られるものとして捉えました。ウィリアム・ジェイムズは真理を「うまく機能するもの」と定義し、ジョン・デューイは真理を「保証された主張可能性」として理解しました。
この真理観は、「正しさへの依存」に対する重要な対抗軸を提供します。プラグマティズムに従えば、「正しさ」は到達された確定的状態ではなく、常に修正に開かれた暫定的な帰結です。「自分は正しい」と確信し、その確信に安住することは、プラグマティズムの精神に反しています。
可謬主義の教訓
プラグマティズムの核心にある可謬主義— 人間の知識は常に誤りうるという認識 — は、正しさへの依存に対する解毒剤となります。自分が間違っている可能性を常に認めること。これは道徳的な弱さではなく、知的な誠実さの表れです。
「正しさ」のアイデンティティ化
現代社会で「正しさへの依存」が深刻化している背景には、道徳的立場のアイデンティティ化があります。「私はフェミニストである」「私は環境活動家である」「私は反差別主義者である」— これらの道徳的立場が個人のアイデンティティの核になるとき、その立場への批判は自己存在への攻撃として経験されます。
サルトルの実存主義は、こうしたアイデンティティの固定化を批判するでしょう。サルトルにとって、人間は「何かである」のではなく、常に自己を作り続ける存在です。「正しい人である」というアイデンティティに固着することは、サルトルの言う「悪意の信仰」— 自由から逃避し、固定した本質に安住しようとする自己欺瞞 — の一形態です。
対話の不可能性 — 正しさの壁
「正しさ」に依存する人との対話は、極めて困難です。なぜなら、対話は自分が間違っている可能性を受け入れることを前提とするからです。
ソクラテスの対話術(ディアレクティケー)は、「自分が何も知らないことを知る」という無知の知から始まりました。正しさに依存する人は、この出発点を受け入れることができません。自分の「正しさ」を手放すことは、アイデンティティの崩壊を意味するからです。
おわりに — 正しくないことへの勇気
「正しさ」への依存から自由になるとは、道徳を放棄することではありません。それは、正しさを所有するのではなく、正しさを探究し続ける態度への転換です。
認識論が教えてくれるのは、真理への道は確実性の獲得ではなく、不確実性のなかでの誠実な探究にあるということです。「私は正しい」と宣言することではなく、「私は正しいかもしれないが、間違っているかもしれない」と認めること。この不安定さを引き受ける勇気こそが、「正しさへの依存」を超えていくための第一歩ではないでしょうか。
唯一の真の叡知は、自分が何も知らないことを知ることにある。 — ソクラテス