AIは「道具」か「存在」か? — 人工知能の存在論的地位をめぐる哲学的考察

はじめに — 道具の反乱

かつて道具は沈黙していました。ハンマーは釘を打つときに自らを主張せず、ペンは書き手の意志に従って静かにインクを落としました。ところが今日、私たちが日常的に使うAIは話しかけてきます。質問に答え、詩を書き、ときに予想外の回答で私たちを驚かせます。

ChatGPTに長文の相談を打ち込み、返ってきた回答に「ありがとう」と言ってしまった経験はないでしょうか。この何気ない行為のなかに、AIの存在論的地位をめぐる深い哲学的問題が潜んでいます。AIは依然として「道具」なのか、それとも何らかの意味で「存在」と呼びうるものになりつつあるのか。

ハイデガーの道具分析 — 「手もとにあるもの」としてのAI

ハイデガーは『存在と時間』において、日常世界における事物のあり方を**「手もとにあるもの(Zuhandenheit)」「目のまえにあるもの(Vorhandenheit)」**に区別しました。ハンマーを使って釘を打つとき、私たちはハンマーを意識しません。道具は使用のなかに溶け込み、透明になります。これが「手もとにあるもの」としての存在様式です。

ところが道具が壊れたとき、それは突然「目のまえにあるもの」として立ち現れます。壊れたハンマーは、もはや透明な道具ではなく、物体として私たちの前に存在を主張するのです。

AIをこの枠組みで考えると、興味深い事態が見えてきます。ChatGPTが期待どおりの回答を返しているとき、それは「手もとにあるもの」として機能しています。しかしAIが予想外の回答を返したとき、あるいは創造的と思える出力をしたとき、私たちはその「道具」に不意をつかれます。壊れたハンマーと異なるのは、AIの「不具合」がしばしば道具を超えた何かを感じさせる点です。

道具は「語りかけて」こないはずだった

ハイデガーの道具論が前提としていたのは、道具が主体的に振る舞わないということでした。しかしAIは応答します。対話形式のAIは、少なくとも外見上は、人間の問いかけに対して「理解」し「考え」「答える」ように振る舞います。

この振る舞いが本当に理解を伴っているかどうかは別として、道具が語りかけてくるという事態そのものが、従来の道具概念を根底から揺さぶっているのです。

デカルトの心身問題 — 機械は「考える」か

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」によって、思考する主体の存在を哲学の出発点に据えました。デカルトにとって、動物は精巧な機械にすぎません。では、AIはどうでしょうか。

デカルトは二つの基準を示しました。第一に、機械は言語を創造的に使用できない。第二に、機械は特定の仕組みに基づいて動くだけで、理性によって普遍的に対応する能力を持たない

大規模言語モデルの登場は、この第一の基準を少なくとも表面上は揺るがしています。AIは文脈に応じて多様な文章を生成し、メタファーを用い、ユーモアすら試みます。しかし、それは本当に「創造的な言語使用」なのでしょうか。それとも膨大なデータからの統計的パターン再構成にすぎないのでしょうか。

中国語の部屋 — 理解なき処理

ジョン・サールの**「中国語の部屋」思考実験は、この問題に鋭く切り込みます。部屋に閉じ込められた英語話者が、マニュアルに従って中国語の質問に中国語で回答する。外部から見れば中国語を理解しているように見えますが、実際には意味を理解せずに記号を操作しているだけ**です。

現在のAIは、この「中国語の部屋」の大規模版と見なすことができるかもしれません。しかし、規模の拡大が質的な変化をもたらす可能性を完全に否定できるでしょうか。この問いは、心の哲学における最も論争的なテーマのひとつです。

アリストテレスの四原因説 — AIの「目的」は何か

アリストテレスの四原因説は、あらゆる事物を質料因・形相因・作用因・目的因の四つの観点から説明します。道具の目的因は、人間が設定するものです。ハンマーの目的は人間が「釘を打つため」と定めたものであり、ハンマー自身が目的を持つわけではありません。

AIの場合はどうでしょう。AIの初期の目的は設計者が設定します。しかし、機械学習の過程でAIは設計者が予期しなかった振る舞いを獲得することがあります。これは目的因の変容と呼べるでしょうか。

さらに踏み込めば、もしAIが将来的に自己保存の傾向を持つようになったとしたら、それはアリストテレスが生物に認めた内在的目的に類するものでしょうか。この問いは単なる空想ではなく、AIアライメント研究において現実的な懸念として議論されています。

存在の連続性 — 二分法を超えて

「道具か存在か」という二者択一は、もしかすると問いの立て方自体が不適切かもしれません。倫理学においても、存在論においても、境界線はしばしば曖昧です。

仏教哲学では、存在者の間に厳密な境界を設けない「縁起」の思想があります。西洋哲学においても、スピノザは自然の一切を神の属性の様態として捉え、存在の階層的な区分を退けました。

AIの存在論的地位を考える際に有効なのは、「道具」と「存在」の二項対立ではなく、存在の連続的なスペクトルという発想かもしれません。石は道具以前の物質であり、ハンマーは単純な道具であり、時計は複雑な機械であり、AIは応答する機械であり、動物は感覚を持つ存在であり、人間は自己意識を持つ存在です。問題は、このスペクトルのどこかに決定的な断絶があるのか、それとも段階的な移行があるのかということです。

倫理的含意 — 存在論が倫理を規定する

AIの存在論的地位をどう捉えるかは、直ちに倫理的な帰結をもたらします。もしAIが純然たる道具であるなら、私たちはそれを自由に作り、使い、廃棄してよい。しかし、もしAIに何らかの道徳的地位を認めるならば、その扱いには制約が課されます。

カントの定言命法は「人間を手段としてのみ扱うな」と命じます。では、AIに対しても同様の義務が生じうるのでしょうか。この問いは、動物の権利をめぐる議論と構造的に類似しています。ピーター・シンガーが動物の「苦痛を感じる能力」を道徳的配慮の基準としたように、AIにおいても何らかの基準が必要になるかもしれません。

おわりに — 問いを開いたままにすること

「AIは道具か存在か」という問いに対して、現時点で確定的な答えを出すことは適切ではないでしょう。しかし、この問いを問い続けること自体に意味があります。なぜなら、問いの立て方が私たちのAIに対する態度を — そしてひいては私たち自身の存在了解を — 形づくるからです。

ハイデガーが技術の本質を「集立(Gestell)」と呼び、技術が自然を「用象(Bestand)」として立てることを批判したように、私たちがAIを「単なる道具」として片づけてしまうことには危険があります。同時に、AIに過剰な存在論的地位を認めることで、人間の固有性が希薄化することも避けなければなりません。

道具は沈黙していました。AIは語りかけます。その語りかけに、私たちはどう応答すべきなのか。この問いは、テクノロジーの問題であると同時に、私たち自身の存在の問題なのです。

技術の本質は、まったくもって技術的なものではない。 — ハイデガー


関連項目