承認欲求は悪なのか — ヘーゲルからSNS時代を読み解く

はじめに — 「承認欲求が強い」という批判

「あの人は承認欲求が強い」。SNS時代において、この言葉はほとんど侮蔑として機能しています。華やかな写真を投稿すれば「承認欲求」、成果を報告すれば「マウント」、意見を表明すれば「自己顕示欲」。いつの間にか、他者から認められたいという感情そのものが、恥ずべきもの、抑制すべきものとして扱われるようになりました。

しかし、承認を求めることは本当に「悪」なのでしょうか。哲学の歴史を振り返れば、承認欲求は人間の本質に深く根ざした衝動であり、むしろ社会と個人の発展に不可欠な原動力として論じられてきました。本稿では、ヘーゲルの承認論を軸に、承認欲求の哲学的意味を再考します。

ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」

ヘーゲルは『精神現象学』(1807年)において、自己意識の成立には他者からの承認が不可欠であると論じました。有名な「主人と奴隷の弁証法」では、二つの自己意識が出会い、互いに承認を求めて命がけの闘争を繰り広げます。

ヘーゲルにとって、承認欲求は単なる虚栄心ではありません。それは自己意識が自己を確立するための根源的な条件です。私たちは他者に認められることによって初めて、自分が何者であるかを知ることができる。承認なき自己は、いわば鏡のない部屋で自分の顔を確認しようとするようなものです。

この洞察は、弁証法的な思考の核心に位置しています。自己と他者は対立するものではなく、相互承認を通じて共に高次の段階へと発展していく。承認欲求とは、この弁証法的プロセスを駆動するエンジンなのです。

アリストテレスの「名誉愛」と徳

承認を求めることの肯定的な側面は、さらに古い時代にも見出せます。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、**名誉(ティメー)**を外的な善のうちで最大のものと位置づけました。

アリストテレスにとって、名誉を求めることそのものは悪ではありません。問題は、名誉の追求が徳に基づいているかどうかです。徳のある行為の結果として名誉が与えられるのは自然なことであり、それを喜ぶのは健全な反応です。しかし、徳なき名誉 — つまり実態を伴わない評判だけを追い求めることは、虚栄に堕します。

アリストテレスの倫理学が示す「中庸」の原理は、承認欲求にも適用できます。承認を全く求めないのは無感覚であり、過度に求めるのは虚栄です。適度な承認欲求こそが、徳のある人間のあり方なのです。

徳倫理学が示す「適切な承認」

徳倫理学の伝統は、承認欲求を一律に否定するのではなく、「どのような承認を、誰から、どのような理由で求めるか」を問います。賢明な人から自分の優れた行為に対して承認を得ることと、不特定多数から外見だけを評価されることは、質的にまったく異なる経験です。

現代の「承認欲求は悪」という風潮は、この質的な区別を見失っています。すべての承認欲求をSNS的な「いいね」の渇望と同一視し、人間にとって根源的な欲求を丸ごと否定してしまうのは、哲学的に粗雑な態度と言わざるを得ません。

ルソーの「自尊心」と「虚栄心」の区別

ジャン=ジャック・ルソーは、承認欲求を二つの概念に分けて分析しました。**amour de soi(自己愛)amour propre(自尊心・虚栄心)**です。

自己愛は自然な自己保存の感情であり、それ自体は善良なものです。一方、amour propre は他者との比較のなかで生まれる感情で、ルソーはこれを社会的な不幸の根源とみなしました。私たちが他者より優れていたい、他者から賞賛されたいと願うとき、そこには際限のない競争と不満が生まれます。

しかし近年のルソー研究では、amour propre にも肯定的な側面があることが指摘されています。他者から正当に評価されたいという欲求は、社会的協力と相互尊重の基盤となりうるのです。問題は amour propre そのものではなく、それが歪められた社会制度のなかで暴走することにあります。

SNSは amour propre を暴走させるか

SNSの構造は、ルソーが危惧した amour propre の暴走を促進する装置として機能しています。常に他者と比較される環境、数値化された評価、アルゴリズムが増幅する競争意識。しかし、これはSNSという道具の問題であって、承認を求める感情そのものの罪ではありません。

ナイフで人を傷つけることができるからといって、ナイフそのものを悪と呼ぶことはしないでしょう。承認欲求もまた、それ自体は中立的な人間の傾向であり、問われるべきはそれがどのような環境で、どのように発揮されるかです。

サルトルの「まなざし」と承認の両義性

サルトルは『存在と無』において、他者のまなざしが自己を「対象」として固定化する暴力性を分析しました。他者に見られることで、私たちは自由な主体から、評価される客体へと転落する。

この分析は、承認欲求の暗い側面を鋭く照らし出しています。承認を求めるとは、自ら進んで他者のまなざしの前に身をさらすことです。そこには常に、他者によって定義されてしまうリスクが伴います。

しかしサルトル自身も認めているように、私たちは他者との関係を完全に断つことはできません。人間は「対自存在」として絶えず自己を超越しようとしますが、その超越は真空のなかでは起こりません。他者の存在 — そして他者からの承認 — は、自己形成の不可避の契機なのです。

現代社会における承認の危機

現代社会の問題は、承認欲求が存在することではなく、承認の回路が歪んでいることにあります。

第一に、承認が数値化されています。「いいね」の数、フォロワー数、PV数。本来は質的で多様であるはずの承認が、単一の数値指標に還元される。これはベンサム的な量的計算を承認の領域に適用したようなもので、承認の質的な豊かさが失われています。

第二に、承認が即時的になっています。アリストテレスが想定した名誉は、長い時間をかけた徳の実践の結果として得られるものでした。しかしSNS上の承認は、投稿から数分で得られます。この即時性が、承認を麻薬的な刺激に変えてしまうのです。

第三に、承認が匿名化されています。誰から認められているかがわからない状態での「いいね」は、アリストテレスが重視した「賢明な人からの承認」とはかけ離れています。

おわりに — 承認欲求を肯定的に生きるために

承認欲求は悪ではありません。それは人間が社会的存在である限り、消し去ることのできない根源的な欲求です。ヘーゲルが示したように、承認は自己意識の成立条件であり、アリストテレスが説いたように、適度な名誉の追求は徳のある生の一部です。

問題は、現代のテクノロジーと社会構造が承認の回路を歪めていることにあります。私たちに必要なのは、承認欲求を抑圧することではなく、より良い承認のあり方を模索することではないでしょうか。

誰から、何について、どのような文脈で認められたいのか。この問いを自覚的に問い続けることが、承認欲求に振り回されるのではなく、承認欲求と共に生きるための哲学的な知恵なのです。

自己意識は、他の自己意識に対してあるときにのみ、存在する。 — ヘーゲル


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