承認経済という新しい支配 — マルクスとフーコーで読み解く「いいね」の政治経済学

はじめに — 承認が「通貨」になるとき

インフルエンサーはフォロワー数で仕事を得る。就職活動でSNSの「影響力」が評価される。飲食店はInstagramの「いいね」数で集客力を測る。企業価値にSNSのエンゲージメント指標が組み込まれる。

かつて経済的価値の尺度は貨幣だけでした。しかし現代社会では、承認そのものが経済的価値を持つようになっています。「いいね」は単なる感情の表現ではなく、交換可能な経済的資源として機能し始めている。これを「承認経済」と呼ぶことにしましょう。

承認経済は、新しい自由と新しい支配を同時にもたらしています。その構造を、マルクスの資本論とフーコーの権力論から分析します。

マルクスの疎外論とSNS労働

マルクスは『経済学・哲学草稿』(1844年)において、資本主義のもとで労働者が経験する**疎外(Entfremdung)**を四つの次元で分析しました。

  1. 生産物からの疎外 — 労働者は自分が作ったものを所有できない
  2. 労働過程からの疎外 — 労働そのものが苦痛となる
  3. 類的存在からの疎外 — 人間の本質的な活動が歪められる
  4. 他者からの疎外 — 人間同士の関係が競争関係に変わる

SNS上の「コンテンツ生産」は、この四つの疎外をすべて再現しています。

第一に、ユーザーが生産した投稿(コンテンツ)はプラットフォーム企業の資産となり、広告収入を生みます。しかしその利益の大部分は企業が取得し、コンテンツの生産者であるユーザーには返還されません。これはデジタル時代の搾取です。

第二に、「バズる」投稿を作るために、自分の自然な表現を歪め、アルゴリズムに最適化した「コンテンツ」を生産する。これは労働過程からの疎外にほかなりません。

第三に、人間の本来的な自己表現が「コンテンツ」に変質する。創造的な行為が、計測可能な「エンゲージメント」の生産手段に堕落する。

第四に、他のユーザーは協力者ではなく、限られた「いいね」をめぐる競争相手となる。

「デジタルプロレタリアート」の誕生

資本主義とマルクスの議論が示すように、資本の論理は常に新しい領域を植民地化します。承認経済において、私たちの社会的関係、感情、自己表現そのものが資本の原料となっています。

マルクスの時代、労働者は工場で身体を資本に売りました。現代では、私たちはSNS上で注意力と感情を資本に売っています。しかも、工場労働者が自分の搾取を自覚していたのとは異なり、SNSユーザーの多くは自分が「労働」していることすら自覚していません。これは疎外の最も深刻な形態です。

フーコーの生権力と承認の管理

ミシェル・フーコーの権力論は、承認経済のもう一つの側面を照らし出します。フーコーが「生権力(バイオポリティクス)」と呼んだのは、人口全体の生を管理・最適化する権力の形態です。

承認経済における生権力は、人々の欲望と行動を、承認を通じて管理する仕組みとして作動します。プラットフォームのアルゴリズムは、どの投稿が「いいね」を得やすいかを決定します。ユーザーは「いいね」を最大化するために、アルゴリズムが好む行動パターンに自分を合わせる。

ここで起きているのは、フーコーが分析した自発的な服従です。誰も直接的に命令しない。しかし承認という報酬と、無視という罰を通じて、人々の行動は効果的に制御されます。パノプティコンの監視は外部からの視線でしたが、承認経済の支配は内面からの欲望を通じて作動するため、さらに見えにくい。

「自由」の製造

フーコーの議論で特に重要なのは、権力は「自由」を通じて作動するという逆説です。SNSの利用は強制ではありません。誰もが「自由に」投稿し、「自由に」他者をフォローし、「自由に」「いいね」を押します。

しかし、この「自由」そのものがプラットフォームによって設計されています。選択肢の枠組み、インターフェースのデザイン、通知のタイミング — これらすべてが、「自由な選択」を特定の方向に誘導しています。フーコーならば、「あなたは自由に選んでいるのではなく、選ばされているのだ」と指摘するでしょう。

ヘーゲルの承認論の転倒

ヘーゲルにとって、承認は相互的なものでした。「主人と奴隷の弁証法」が示すように、一方的な承認は不完全であり、真の承認は対等な主体間の相互承認によってのみ達成されます。

承認経済は、ヘーゲルの相互承認の理念を転倒させています。インフルエンサーとフォロワーの関係は対称的ではありません。インフルエンサーは多数のフォロワーから承認を受けますが、個々のフォロワーの存在はインフルエンサーにとってほとんど意味を持たない。

これはヘーゲルの「主人と奴隷」の関係に類似しています。主人(インフルエンサー)は奴隷(フォロワー)の承認を受けますが、その承認は自由な主体からのものではないため、真の承認として機能しない。一方、フォロワーは承認を与えるばかりで受け取ることができない。両者とも、真の相互承認からは疎外されているのです。

ベンサムのパノプティコンから「いいね」ティコンへ

ベンサムが構想したパノプティコンは、監視による規律化の装置でした。看守に見られているかもしれないという意識が、囚人を自発的に従わせる。

承認経済は、このパノプティコンを反転させた装置です。私たちは「見られる」ことを恐れるのではなく、「見られない」ことを恐れる。無視されること、反応を得られないこと、存在が認知されないこと — これらが現代の「罰」です。

パノプティコンが「見られることへの恐怖」で人を支配したとすれば、承認経済は**「見てもらえないことへの恐怖」**で人を支配します。結果は同じです — 人々は権力(プラットフォーム)が望む通りに行動するようになる。

おわりに — 承認を取り戻す

承認経済からの完全な離脱は、現代社会においてほぼ不可能です。しかし、その構造を自覚することはできます。

マルクスが教えるように、自分のコンテンツがどのように搾取されているかを知ること。フーコーが示すように、「自由な選択」の背後にある権力の作動を認識すること。ヘーゲルが求めたように、一方的な承認ではなく、相互承認の関係を意識的に構築すること。

承認は人間にとって不可欠なものです。しかし、承認がプラットフォーム資本主義の道具となるとき、それは解放ではなく支配のメカニズムに転化します。真の承認を取り戻すためには、「いいね」の数ではなく、顔の見える関係における相互的な承認の場を守り育てることが必要です。

資本主義のもとでは、すべてのものが商品になる。 — マルクス(意訳)


関連項目