キャンセルカルチャーとJ.S.ミル — 表現の自由の限界はどこにあるか

はじめに — 沈黙させる力

SNS上で不適切とみなされた発言が拡散し、発言者が社会的制裁を受ける — いわゆるキャンセルカルチャーは、2020年代の最も論争的な社会現象のひとつです。

これは「正義の実現」なのか、それとも「集団的な言論封殺」なのか。この問いに向き合うために、19世紀の自由主義思想家J.S.ミルの議論に立ち返ってみましょう。

ミルの危害原理

ミルは『自由論』(1859年)において、個人の自由を制限してよい唯一の根拠は他者への危害防止であると主張しました。これが有名な「危害原理(harm principle)」です。

文明社会の成員に対して、その意志に反して権力を行使することが正当化される唯一の目的は、他者への危害を防止することである。

この原理に従えば、不快な言論であっても、直接的な危害をもたらさない限り制限すべきではないことになります。ミルは「不快さ」を危害とは区別しました。

社会的暴虐 — ミルが最も恐れたもの

興味深いことに、ミルが最も危険視したのは政府による検閲ではなく、「社会的暴虐」 — 世論の圧力による個人の自由の抑圧 — でした。

社会の暴虐は政治的暴虐よりもおそるべきである。それは法律の罰則こそ用いないが、逃げ場がより少なく、生活の細部にまで浸透する。

キャンセルカルチャーは、まさにミルが警告した社会的暴虐の現代版と読めます。法的な制裁ではなく、社会的な排除と経済的な損害によって「不適切な」言論を封じる。

しかし、ミルの議論には続きがある

ミルの自由論を「あらゆる言論は保護されるべきだ」という単純な結論に矮小化することは、ミルの思想を正しく読んでいません。

ミルは、言論の市場を信じていました。自由な議論のなかで、真理は誤謬に打ち勝つ。しかしそれには条件があります — 議論が対等な参加者のあいだで、理性的に行われることです。

現代のSNS空間は、この条件を満たしているでしょうか。匿名のアカウントによる集団攻撃、アルゴリズムが増幅する怒りの感情、非対称な発信力。ミルが想定した「思想の自由市場」とは似て非なる環境です。

被害者の声と権力構造

キャンセルカルチャーを支持する側の重要な主張は、従来「声を上げられなかった人々」が発言力を得たというものです。

人種差別、性差別、ハラスメント — これらの被害者はかつて沈黙を強いられていました。SNSはその力学を変えました。キャンセルカルチャーは、既存の権力構造に対する**「下からの抵抗」**としての側面を持っています。

ミルが生きた19世紀のイギリスでも、女性参政権運動家や労働者階級の活動家は「社会を乱す過激派」とみなされていました。当時の「良識ある世論」による抑圧と、現代のキャンセルカルチャーとの違いはどこにあるのか。この問いは容易には答えられません。

寛容のパラドクス

哲学者カール・ポパーは「寛容のパラドクス」を指摘しました。不寛容な者に対しても寛容であるべきか。不寛容な言論を無制限に許容すれば、最終的に寛容な社会そのものが破壊される。

このパラドクスは、キャンセルカルチャーの議論に直接関わります。ヘイトスピーチに対する社会的制裁は、寛容な社会を守るための必要悪なのか、それとも新たな不寛容の始まりなのか。

おわりに

キャンセルカルチャーの是非は、単純な二項対立では捉えられません。ミルの思想は、表現の自由を擁護する強力な論拠を提供すると同時に、自由な議論が成立するための条件についても考えさせます。

私たちに必要なのは、「キャンセルカルチャーは善か悪か」という問いではなく、どのような条件のもとで、どのような言論が、どのような結果をもたらすかという、より精緻な分析ではないでしょうか。ミルが残した知的遺産は、まさにその分析の道具を私たちに与えてくれます。

異論に沈黙を強いることの特有の害悪は、それが人類全体から奪うことである。 — ミル