キャンセルカルチャーの功罪 — 社会的制裁の哲学的分析

はじめに — 賛否を超えて構造を見る

キャンセルカルチャーとミルの自由論では、J.S.ミルの危害原理を手がかりに表現の自由の限界を考察しました。本コラムでは、視野をさらに広げ、キャンセルカルチャーという現象そのものの社会学的・哲学的構造を多角的に分析します。

キャンセルカルチャーは「善か悪か」で語り尽くせる現象ではありません。それは権力の移動であり、公共圏の変容であり、集団的道徳感情の表出です。この複雑な現象を理解するために、複数の哲学的フレームワークを重ね合わせてみましょう。

フーコーの権力分析 — 誰が「キャンセル」する権力を持つのか

フーコーは、権力を「上から下へ」行使されるものではなく、社会の至るところに遍在するものとして捉えました。この視点からキャンセルカルチャーを見ると、興味深い構図が浮かび上がります。

従来、社会的制裁の権力はマスメディア、企業、政府といった制度的アクターに集中していました。SNSの登場は、この権力の配分を根本的に変えました。かつては「声なき人々」だった個人が、集合的に制裁を行使する力を得たのです。

しかしフーコーの分析に従えば、権力の移動は必ずしも権力構造の解消を意味しません。新たな権力は、新たな規範を生み出します。「何がキャンセルに値するか」を決定する暗黙の基準は、それ自体が一種の規律権力として機能し始めるのです。

「正しさ」の規律化

監視社会とフーコーで論じたパノプティコンの論理は、キャンセルカルチャーにも当てはまります。「キャンセルされるかもしれない」という不安が内面化されるとき、人々は自発的に発言を検閲するようになります。これはフーコーが言う自己規律の現代的な形態です。

アーレントの公共性論 — 「現れの空間」の変質

ハンナ・アーレントは、公共圏を人々が多様な視点から意見を交わし合う**「現れの空間」**として理想化しました。この空間では、自分とは異なる立場の他者と対面し、共通世界について語り合うことで、真の政治的判断が可能になります。

キャンセルカルチャーは、この公共圏をどのように変えているでしょうか。

肯定的に見れば、キャンセルカルチャーは公共圏への参加者を増やしました。これまで「発言する権利」を実質的に持たなかったマイノリティが、SNSを通じて公共的な議論に参加できるようになりました。アーレントが重視した「複数性(plurality)」の観点から、これは公共圏の豊かさを増す変化です。

否定的に見れば、キャンセルカルチャーは公共圏から人々を排除する力として働きます。「キャンセル」された人は、公共的な対話の場そのものから追い出されます。アーレントにとって、人が公共圏から排除されることは、単なる不便ではなく、人間としての根源的な能力の剥奪を意味します。

功利主義的分析 — 帰結の計算は可能か

功利主義の立場からキャンセルカルチャーを評価するには、その帰結を総合的に検討する必要があります。

期待される便益

  • 差別的・加害的な発言や行動に対する抑止効果
  • 被害者の声が聴かれ、社会的認知が高まる
  • 権力者への説明責任(アカウンタビリティ)の強化

予想される損害

  • 過度の萎縮効果による自由な言論の抑制
  • 比例原則を欠く過剰な制裁(軽微な発言に対する社会的抹殺)
  • 復元可能性の欠如(一度キャンセルされると回復が困難)
  • 第三者への波及的損害(家族、同僚への影響)

ベンサムの功利計算の枠組みで考えれば、キャンセルカルチャーの道徳的評価は、これらの便益と損害の総量に依存します。しかし問題は、これらの影響を正確に測定することが極めて困難だということです。萎縮効果による「語られなかった言葉」の損失を、どうやって数値化するのでしょうか。

ストア派の視点 — 感情と理性のあいだ

ストア派の哲学者たちは、激情(パトス)に支配されることの危険を繰り返し警告しました。怒り、恐れ、羨望といった感情は理性を曇らせ、誤った判断を導くと。

キャンセルカルチャーの動力源は、多くの場合道徳的怒りです。不正に対する怒りは正当なものですが、ストア派の教えに従えば、怒りに突き動かされた行動は必ずしも正義に適うとは限りません。SNS上での集団的怒りは、しばしば事実確認を省略し、文脈を無視し、対象を「悪」のカテゴリーに固定化します。

エピクテトスが説いたように、私たちがコントロールできるのは自分自身の判断と行動だけです。他者を「キャンセル」することで世界を正そうとする衝動を、一度立ち止まって吟味すること — それはストア哲学が現代に与える重要な教訓です。

赦しと応報 — 修復的正義の可能性

キャンセルカルチャーの最も深刻な問題の一つは、赦しのメカニズムが存在しないことです。刑事司法においてすら、服役を終えた人には社会復帰の道が用意されています。しかしインターネット上の「キャンセル」には、刑期の終わりがありません。

倫理学の伝統には、応報的正義(罰を与えること)と修復的正義(関係を修復すること)という二つの流れがあります。キャンセルカルチャーは圧倒的に応報的であり、修復的な要素をほとんど持ちません。

過ちを犯した人に変化の機会を与えず、永続的なラベルを貼り付けること。これは、人間の可変性 — 学び、成長し、変わりうる存在としての人間 — を否定することにほかなりません。

構造的問題としてのキャンセルカルチャー

キャンセルカルチャーを個々の事例の是非で論じるだけでは不十分です。問題の核心は、SNSプラットフォームの構造が特定のコミュニケーション様式を促進し、別の様式を抑制しているということです。

アルゴリズムは激しい感情的反応を優先的に拡散します。短い文章は文脈を切り落とし、複雑な議論をスローガンに還元します。匿名性は責任を希薄化し、攻撃のコストを下げます。キャンセルカルチャーは、こうした構造的条件のもとで必然的に生じる現象であり、個々人の道徳的欠陥の問題に還元することはできないのです。

おわりに — 批判と排除のあいだ

キャンセルカルチャーの「功」は、権力者の説明責任を問い、これまで無視されてきた被害者の声を届けたことにあります。その「罪」は、批判が排除に転化し、対話が断罪に変わり、過ちを犯した人に回復の道を閉ざしたことにあります。

哲学が提供できるのは、この功罪を秤にかけるための枠組みです。フーコーは権力の構造を、アーレントは公共性の条件を、功利主義は帰結の計算を、ストア派は感情の統御を教えてくれます。現代の倫理学の課題は、これらの知恵を統合し、批判は許すが排除は避ける — そのような公共圏のあり方を構想することにあるでしょう。

人間の条件は複数性である — すなわち、地球上に生き、世界に住むのは、一人の人間ではなく、複数の人間たちなのだ。 — アーレント

関連項目