共感疲労の時代 — 感じすぎることの倫理的コスト

はじめに — 感じることに疲れた世界

戦争の映像、災害の報道、貧困の写真、差別の告発。現代のメディア環境は、世界中の苦痛を休む間もなく私たちに届けます。最初は胸が痛み、何かしなければという衝動に駆られたかもしれません。しかし、苦痛の洪水が続くうちに、いつのまにか無感覚になっている自分に気づく。これが「共感疲労(compassion fatigue)」です。

共感疲労は、個人の弱さの表れではなく、情報環境と人間の感受性のミスマッチがもたらす構造的な問題です。哲学は「共感」と「同情」をめぐって長い議論の歴史を持っています。その知見は、共感疲労の本質を理解し、持続可能な倫理のあり方を構想するうえで不可欠な手がかりを提供します。

アダム・スミスの共感理論 — 「他者の靴を履く」

アダム・スミスは『道徳感情論』(1759年)において、道徳の基盤を**共感(sympathy)**に求めました。私たちは想像力を通じて他者の立場に身を置き、その人が何を感じているかを推測する。この「想像的な立場交換」が、道徳的判断の基礎をなすとスミスは考えました。

スミスの理論において重要なのは、共感が直接的な感情の伝染ではなく、想像力の働きであるという点です。私は他者の苦痛をそのまま感じるのではなく、「もし自分がその状況にいたら何を感じるか」を想像する。この想像力に基づく共感が、倫理学の出発点なのです。

「公平な観察者」の視点

スミスはさらに「公平な観察者(impartial spectator)」の概念を導入しました。特定の個人への共感だけでは、道徳的判断は偏ったものになりかねません。公平な観察者とは、すべての関係者に等しく共感できる仮想的な視点であり、この視点に照らして自分の感情や行動を調整することが、道徳的成熟の証です。

共感疲労は、この「公平な観察者」の機能不全として解釈できます。メディアが特定の苦痛を選択的に強調し、別の苦痛を不可視にするとき、私たちの共感は偏り、歪められます。そして共感のリソースが枯渇したとき、「公平な観察者」は沈黙してしまうのです。

ショーペンハウアーの「同苦」— 共感の形而上学

ショーペンハウアーは、倫理学の基盤を「同苦(Mitleid)」— 他者の苦しみを自分の苦しみとして感じること — に置きました。ショーペンハウアーにとって、個体の境界は本来幻想であり、すべての存在は同じ「意志」の現れです。他者の苦痛を自分の苦痛として感じる能力は、この形而上学的な一体性の直観に基づいています。

ショーペンハウアーの立場からすれば、共感疲労は個体化の原理(principium individuationis)が強化された結果として理解できます。私たちは他者との根源的なつながりを見失い、苦痛を「他人事」として処理するようになる。テレビの画面やスマートフォンのスクリーンは、物理的にも心理的にも他者との距離を作り出し、同苦の可能性を制限するのです。

ニーチェの同情批判 — 共感は美徳か

ニーチェは、ショーペンハウアーの同苦の倫理に対して痛烈な批判を加えました。ニーチェにとって、同情(Mitleid)は弱者の道徳 — ルサンチマンに基づく「奴隷道徳」— の典型的な表現です。他者の苦痛に共感することは、苦痛を共有することであり、世界の苦痛の総量を増やすだけだ。

ニーチェの批判は挑発的ですが、共感疲労の問題を考えるうえで無視できない視点を含んでいます。共感が苦痛の「共有」であるならば、それは倫理的に優れた態度であると同時に、自己破壊的な態度でもあるのです。他者の苦痛にすべて共感し続けることは人間の能力を超えており、その不可能な要求を自分に課すことは、罪悪感と無力感を生み出すだけかもしれません。

「力への意志」と創造的応答

ニーチェが対置するのは、苦痛への受動的な共感ではなく、世界に対する創造的な応答です。他者の苦痛を感じて動けなくなるのではなく、その苦痛を変革するための力を自らのなかに見出すこと。共感は出発点として重要ですが、それ自体が目的であってはならない — ニーチェの批判は、共感疲労の時代に対するひとつの処方箋を示しています。

共感の限界と正義の関係

マーサ・ヌスバウムやポール・ブルームなどの現代の哲学者・心理学者は、共感の限界を認めつつも、完全に共感を放棄することの危険を指摘しています。ブルームは著書『反共感論(Against Empathy)』で、個別的な共感よりも「合理的な思いやり(rational compassion)」を擁護しました。

この議論は、功利主義的な倫理と共感の関係にも及びます。ベンサム的な功利主義は、感情ではなく理性的な計算に基づいて最大多数の最大幸福を追求します。共感に頼らない倫理は冷たく非人間的に見えるかもしれませんが、共感疲労が蔓延する時代において、理性的な判断に基づく正義の重要性は増しているのかもしれません。

「近くの人」と「遠くの人」

共感のもうひとつの限界は、その近接性バイアスです。私たちは物理的・心理的に近い人の苦痛には共感しやすいが、遠い人の苦痛には共感しにくい。同じ国の災害には心が動くが、遠い国の紛争には無関心 — この偏りは、気候変動と世代間倫理の問題にも通じるものです。

持続可能な共感のために

共感疲労を克服するためには、共感の「量」ではなく「質」を見直す必要があります。世界中のすべての苦痛に共感することは不可能ですし、その要求は非倫理的ですらあります。重要なのは、限られた共感のリソースをどこに、どのように配分するかという判断力です。

レヴィナスが教えるように、倫理の出発点は特定の他者の「顔」との出会いです。抽象的な「世界の苦痛」に共感しようとすることは、かえって誰の苦痛にも応答できないことに帰結します。目の前の具体的な他者に真剣に応答すること — それが持続可能な共感の第一歩かもしれません。

おわりに — 感じないことの倫理

共感疲労は現代人の弱さではなく、情報環境がもたらす構造的な問題です。すべてに共感することは不可能であり、共感の限界を認めることは、倫理的な後退ではなく、倫理的な現実主義です。

しかし同時に、「共感できないから仕方ない」という開き直りは許されません。共感の限界を認めたうえで、それでもなお他者の苦痛に応答する方法を模索し続けること。感情ではなく制度を通じて正義を追求すること。個別の共感ではなく構造的な変革を志向すること。共感疲労の時代の倫理は、感情の動員ではなく、知性と意志の持続的な実践にこそ求められるべきでしょう。

関連項目