「便利さ」は本当に善なのか — 効率と人間性の哲学的考察
はじめに — 便利さへの疑問
ワンクリックで商品が届き、音声ひとつで照明が消え、目的地までナビゲーションが最適ルートを案内する。現代のテクノロジーは、かつてないほどの便利さを私たちに提供しています。そして私たちは、この便利さを無条件の善として受け入れています。新しい製品やサービスが「便利」であることは、それだけで十分な価値を持つかのようです。
しかし、哲学は安易な前提を疑うことを教えます。「便利さ」は本当に善なのか。 もしかすると、私たちは便利さを追求するあまり、何か重要なものを失いつつあるのではないか。この問いを、哲学の伝統のなかに位置づけて考えてみましょう。
善とは何か — 古代哲学の問い
「善い(アガトン)」とは何かという問いは、ギリシア哲学の中核的テーマでした。
ソクラテスは、多くの人が善いと信じているもの — 富、名声、権力 — が本当に善いのかを対話を通じて問い直しました。その結果、しばしば相手の確信は揺さぶられ、見かけの善と真の善の区別が浮かび上がりました。
プラトンは「善のイデア」を万物の究極的原理として位置づけました。個々の善いものは、善のイデアの分有によって善い。この観点から言えば、便利さが善であるためには、それが善のイデアに何らかの仕方で参与していなければなりません。
アリストテレスは、善を**目的(テロス)**との関連で理解しました。あらゆるものには固有の目的があり、その目的をよく達成することが善です。ナイフの善さは「よく切れること」であり、目の善さは「よく見えること」です。
人間の目的とは何か
では、人間の固有の目的とは何でしょうか。アリストテレスの答えは、理性に基づく魂の活動です。人間の善とは、理性を最大限に発揮して生きること — すなわちエウダイモニア(幸福)です。
この観点から便利さを評価すると、便利さが善であるのは、それが理性的な活動を促進する場合に限られます。便利さが私たちの理性的な活動を代替し、思考や判断の機会を奪うのであれば、それは善どころか、人間の目的に反するものになりかねません。
便利さの功利主義的正当化
便利さを善とする最も一般的な哲学的根拠は、功利主義です。便利さは苦痛を減らし、快楽を増やす。洗濯機は手洗いの苦労を解消し、自動車は徒歩の疲労を軽減する。功利主義的に計算すれば、便利さは明らかに善です。
しかし、この計算にはいくつかの前提が隠れています。
第一に、不便さはすべて苦痛か。 登山者は山頂に着くまでの困難を苦痛として排除したいとは思いません。料理を趣味とする人は、便利な冷凍食品よりも手間のかかる自炊を楽しみます。不便さのなかに喜びがある場合、便利さの導入はむしろ快楽を減少させます。
第二に、便利さは新たな苦痛を生んでいないか。 スマートフォンは連絡を便利にしましたが、同時に「常に連絡可能であること」の圧力を生み出しました。メールの便利さは、処理すべきメールの洪水を生み出しました。便利さが新たな負担を創出するというパラドックスは、功利主義的な計算を複雑にします。
第三に、長期的な影響。 便利さが即座にもたらす快楽と、長期的に失われるものの価値をどう比較するのか。ナビゲーションは目的地への到達を便利にしますが、道に迷う経験 — 予期せぬ発見、方向感覚の訓練、不確実性への耐性 — は永久に失われます。
ハイデガーの技術批判 — 「用象」としての世界
ハイデガーの技術論は、便利さの追求に対する最も根本的な批判を提供します。ハイデガーによれば、近代技術の本質は**「集立(Gestell)」** — 存在者をすべて利用可能な「用象(Bestand)」として立てること — にあります。
便利さの追求は、この集立の論理に深く根ざしています。便利さを追求するとき、私たちは世界のあらゆるものを手段として位置づけています。食材は「効率的に摂取されるべき栄養素」であり、移動は「最短時間で達成されるべき目的」であり、人間関係さえも「最適化されるべきネットワーク」です。
ハイデガーが危惧したのは、この技術的なまなざしが唯一の世界了解の仕方になってしまうことです。世界を「便利かどうか」の基準で評価することに慣れてしまうと、美しさ、神聖さ、驚き、畏怖といった技術的に還元できない世界の側面が見えなくなってしまいます。
イリイチのコンヴィヴィアリティ — 自律的な道具
オーストリア出身の思想家イヴァン・イリイチは、**コンヴィヴィアリティ(自立共生)**という概念を提唱しました。イリイチによれば、道具は一定の閾値を超えると、人間を解放する手段から人間を支配する手段へと転化します。
自動車を例に取りましょう。自動車は当初、人間の移動の自由を拡大しました。しかし、自動車社会の発展は、公共交通の衰退、都市の郊外化、環境破壊をもたらし、結果として自動車なしでは生活できない社会を作り上げました。便利さのために導入された道具が、その便利さに依存させる構造を生み出したのです。
同様のことがスマートフォンにも言えます。スマートフォンは生活を便利にしましたが、いまやスマートフォンなしでは銀行取引も、地図の確認も、友人との連絡もままならない。便利さは選択肢から必需品へと変わり、自律性はむしろ低下しています。
エピクロスの教え — 必要なものと不必要なもの
エピクロスは欲望を三つに分類しました。
- 自然的で必要な欲望 — 食事、睡眠、住居
- 自然的だが必要ではない欲望 — 美食、豪華な衣服
- 自然的でも必要でもない欲望 — 名声、権力
エピクロスの処方箋は、第一の欲望を満たし、第二・第三の欲望を抑制することでした。便利さの多くは、第二・第三のカテゴリーに属するものです。ワンクリック配送は生存に必要ではなく、音声認識AIも必然的なものではありません。
エピクロスが教えてくれるのは、足るを知ることの価値です。便利さの追求に終わりはなく、昨日の「便利」は今日の「当たり前」になり、明日はさらに便利なものが求められます。この無限の欲望の連鎖から降りることが、真の充足をもたらすのかもしれません。
不便さの復権 — スローの思想
近年、スローフード、スローライフ、デジタルデトックスといった運動が広がっています。これらは、便利さの追求に対する実践的な抵抗と見ることができます。
哲学的に言えば、これらの運動はプロセスの価値を再発見する試みです。便利さは結果の効率を最大化しますが、プロセスの質は無視します。しかし、パンをこねる手の感触、知らない街を歩く発見の喜び、手紙を書く思索の時間 — これらのプロセスのなかにこそ、人間的な生の豊かさが宿っているのかもしれません。
おわりに — 便利さを選ぶ自由、不便さを選ぶ自由
「便利さは善か」という問いに対する答えは、**条件つきの「善」**でしょう。便利さは、それが人間の自律性を高め、理性的な活動を促進し、生の豊かさを損なわない限りにおいて善です。しかし、便利さが思考を代替し、自律性を損ない、世界の多様な側面を覆い隠すとき、それは善ではなくなります。
最も重要なのは、便利さを選ぶことも不便さを選ぶこともできる自由を保持することです。便利さが不可避の前提になってしまったとき — スマートフォンなしでは社会参加できないとき — 便利さはもはや自由の産物ではなく、自由の制約になっています。
便利さは手段であって目的ではない。この単純な区別を忘れないことが、テクノロジー時代を賢く生きるための哲学的な知恵なのです。
足るを知る者は富み、努めて行う者は志有り。 — 老子