デジタル人格は「本当の自分」か — 同一性と真正性の哲学

はじめに — 二つの「わたし」

LinkedInではプロフェッショナルな自分、Instagramでは華やかな日常を送る自分、Twitterでは鋭い意見を持つ自分、そして匿名掲示板では普段は言えない本音を語る自分。現代人は複数のSNSに複数の「自己」を持っています。

では、どの自分が「本当の自分」なのでしょうか。あるいは、そもそも「本当の自分」などというものは存在するのでしょうか。

この問いは、哲学が数百年にわたって格闘してきた人格の同一性の問題と深く結びついています。デジタル時代は、この古典的な問題に新たな次元を付け加えました。

ロックの人格同一性論 — 記憶がつくる「わたし」

ジョン・ロックは、人格の同一性を記憶の連続性に求めました。ロックにとって、「わたしがわたしである」のは、過去の経験を記憶として保持し、現在の自己とつなげることができるからです。

昨日の夕食の記憶を持っている「わたし」と、その夕食を実際に食べた「わたし」は、記憶の連鎖によって同一の人格です。逆に言えば、記憶が完全に断絶すれば、たとえ身体が同じでも、同じ人格とは言えないことになります。

デジタル記憶の問題

ロックの理論をデジタル時代に適用すると、興味深い問題が浮上します。SNSは外部化された記憶として機能しています。Facebookの「この日の思い出」機能は、私たちが忘れていた過去を呼び覚まします。Googleフォトは撮影した記憶を自動で整理し、保存してくれます。

ロック的に考えれば、これらの外部記憶は人格の同一性の一部を構成しうるものです。しかし、SNSに記録された「過去の自分」は、実際に経験した自分とは異なります。Instagram に投稿した旅行の写真は、旅行の美しい瞬間だけを切り取ったものであり、退屈な待ち時間や些細な不満は排除されています。

外部化された記憶が、記憶の内容そのものを書き換える。 これは、ロックの理論が想定していなかった事態です。

ヒュームの懐疑 — 「自己」は幻想か

ヒュームは、ロックよりさらに急進的な立場をとりました。ヒュームによれば、自己とは知覚の束にすぎず、それらの知覚を統一する恒常的な「わたし」は存在しません。

「自己とは、知覚の束あるいは集合にほかならず、想像を超えた速さで次々に入れ替わり、絶え間なく流動している。」 — ヒューム『人性論』

デジタル時代の自己は、ヒュームの記述にぴったり当てはまるように見えます。SNSのプロフィールは常に更新され、昨日のツイートは今日のツイートに上書きされ、デジタル人格は「絶え間なく流動して」います。

ヒュームの懐疑は、「本当の自分」を探し求めること自体が誤った企てである可能性を示唆しています。デジタル人格が「本当の自分」でないとすれば、オフラインの自分もまた「本当の自分」ではないかもしれない。両者はともに、流動する知覚の束の異なる断面にすぎないのです。

サルトルの実存主義 — 「本質」に先立つ「実存」

サルトルの実存主義は、この問いに対して別の角度からの洞察を提供します。サルトルの有名なテーゼ「実存は本質に先立つ」は、人間にはあらかじめ決まった本質などなく、自らの選択を通じて自己を創造していくのだと主張します。

この立場に立てば、「本当の自分」はどこかに隠れているのではなく、まだ存在していないのです。私たちは選択の連続を通じて、自分自身を作り上げていく過程のなかにいます。

デジタル空間における自己欺瞞

しかしサルトルは同時に、**自己欺瞞(mauvaise foi)**の概念を通じて、人間が自らの自由から逃避する傾向を分析しました。自己欺瞞とは、自分は自由ではないと思い込むこと、あるいは固定した「本質」を持つかのように振る舞うことです。

SNSにおけるペルソナの構築は、この自己欺瞞と紙一重です。「インスタ映え」する自分を演出し続けるとき、私たちはその演出された自己を自分の「本質」として固定化しようとしています。これはサルトル的に言えば、自由からの逃避 — 自らの可能性を限定し、他者のまなざしが定義する「自分」に安住しようとする態度 — です。

ゴフマンの演劇論 — すべての自己は演技か

社会学者アーヴィング・ゴフマンは、日常生活を演劇に喩えました。私たちは常に「印象操作」を行い、状況に応じて異なる「前面」を演じています。職場での自分、家庭での自分、友人との自分は、すべて異なる舞台で演じられる役柄です。

ゴフマンの観点に立てば、デジタル人格は新しい「舞台」が追加されたにすぎません。SNSの自分が「偽物」で対面の自分が「本物」だというのは、一つの舞台を特権化する恣意的な判断です。

しかし、デジタル空間の演技と対面的な演技には、重要な違いがあります。対面的な演技は即興的であり、相手の反応に応じてリアルタイムに修正されます。一方、SNSの自己呈示は編集可能です。写真を加工し、文章を推敲し、不都合な投稿を削除できる。この編集可能性は、自己呈示の「完成度」を高めますが、同時にその自然さ(authenticity)を損なっています。

真正性(オーセンティシティ)の再考

キルケゴールからハイデガーへと受け継がれた**真正性(Authentizität)**の概念は、デジタル人格の問題にとって中核的です。真正性とは、他者の期待や社会的な規範に流されるのではなく、自分自身の可能性に向き合って生きることです。

しかし、真正性はしばしば誤解されます。「ありのままの自分」を見せることが真正性だとは限りません。なぜなら、「ありのままの自分」を意識的に見せるという行為自体が、一種の演出だからです。Instagramの「#nofilter」タグは、フィルターを使わないことを強調する時点で、すでにフィルターとして機能しています。

実存主義が教えてくれるのは、真正性とは固定した本質に忠実であることではなく、自己の不確定性と自由を引き受ける覚悟だということです。デジタル人格が「本当の自分」かどうかを問うのではなく、デジタル空間における自己の構築を自覚的に引き受けること — それがデジタル時代の真正性なのかもしれません。

おわりに — 問い続ける自己

「本当の自分はどこにいるのか」という問いに、哲学は一義的な答えを与えません。ロックは記憶に、ヒュームは知覚の流れに、サルトルは自由な選択に、それぞれ自己の根拠を求めました。

デジタル時代の私たちに必要なのは、「本当の自分」の発見ではなく、「自分とは何か」を問い続ける姿勢かもしれません。複数のプラットフォームに複数のペルソナを持つことは、自己の分裂ではなく、自己の多面性の表現と捉えることもできるのです。

ただし、その多面性が自由な選択に基づくものか、それともプラットフォームのインセンティブ構造に操られた結果であるかを、常に批判的に検討する必要があります。自己を問うことは、デジタル時代においても、哲学の最も基本的な営みであり続けるのです。

人間はまず先に存在し、世界のなかで出会われ、世界のなかに不意に現れ、その後で定義されるものである。 — サルトル


関連項目