好きなことで生きる幻想 — 「自己実現」イデオロギーの哲学的批判

はじめに — 「好きを仕事に」という呪い

「好きなことで、生きていく」。かつてYouTubeの広告で使われたこのフレーズは、現代の労働観を象徴するスローガンになりました。インフルエンサーは自分の「好き」をコンテンツにし、スタートアップの創業者は「情熱(パッション)」を語り、自己啓発書は「天職を見つけよ」と説きます。

このメッセージには、暗黙の前提があります。「好きなことで生きていない人は、何かが足りない」。好きなことを仕事にできないのは、努力が足りないか、勇気がないか、才能がないか — いずれにしても、それは個人の責任だ、と。

しかし哲学は、この「自明の善」を批判的に問い直します。「好きなことで生きる」は本当に善いことなのか。そもそも「好き」とは何か。そして、このイデオロギーは誰の利益に奉仕しているのか。

「好き」とは何か — 欲望の考古学

「好きなことをしなさい」というアドバイスは、「好き」が自分の内部から自然に湧き上がる本源的な感情であることを前提としています。しかし、哲学はこの前提を疑います。

フーコーの**主体化(subjectivation)**の分析は、私たちの欲望や嗜好が権力関係のなかで形成されることを明らかにしました。何を「好き」と感じるかは、教育、メディア、文化、階級、ジェンダーといった社会的条件によって構造化されています。

たとえば、「YouTuberになりたい」という子供の欲望は、YouTube自体が存在しなければ生じえなかったものです。「プログラミングが好き」という感情は、IT産業の社会的評価なしには同じ強度を持たなかったでしょう。私たちの「好き」は、社会が用意した選択肢のなかから形成されたものにすぎない可能性があります。

ルソーの amour-propre との共振

ルソーが区別した自己愛(amour de soi)と自尊心(amour-propre)の概念は、ここでも有効です。「好きなこと」が純粋な自己愛に基づくものなのか、それとも社会的な承認を求める自尊心から来ているのか。「好きなことで成功している自分」というイメージが欲しいだけなのか、それとも活動そのものに喜びがあるのか。

多くの場合、「好きなことで生きたい」という欲望には、社会的な承認への希求が深く絡み合っています。好きなことそのものが目的なのではなく、好きなことで生きている自分が他者にどう見られるかが気になっている。これは自己実現ではなく、承認の経済学です。

新自由主義と自己実現の接合

「好きなことで生きる」イデオロギーは、新自由主義的な統治の技術と深く結びついています。フーコーは晩年の講義で、新自由主義が個人を**「自己の企業家(entrepreneur of the self)」**として構成することを分析しました。

新自由主義のもとでは、個人は自分自身を一種の企業として経営すべきだとされます。スキルを磨き、ブランディングを行い、市場での自分の価値を最大化する。「好きなことで生きる」は、この自己の企業家精神の理想的な表現です。

しかし、この論理には巧妙な罠があります。「好きなことで生きる」ことが個人の自由な選択だとされることで、構造的な問題が個人の責任に転嫁されるのです。好きなことで生きられないのは、社会の構造 — 不平等、搾取、機会の不均等 — のせいではなく、自分の努力や勇気が足りないからだ、と。

マルクスの視点 — 情熱の搾取

マルクスの疎外論を現代に適用すると、「好きなことで生きる」イデオロギーは情熱の搾取の正当化装置として機能していることが見えてきます。

クリエイティブ産業、アカデミア、NPOセクターでは、「やりがい」や「情熱」を理由に低賃金・長時間労働が正当化されることがしばしばあります。「好きでやっているのだから報酬は低くてもいいだろう」「情熱があれば過酷な労働条件にも耐えられるだろう」。

これは、マルクスが批判した搾取の新たな形態です。産業資本主義では、労働者は明確に「嫌な仕事」をさせられ、搾取を自覚する契機がありました。しかし「好きなことで生きる」イデオロギーのもとでは、搾取される側が自ら進んで搾取に参加する構造が生まれます。過酷な条件を引き受けるのは「好きだから」であり、文句を言うのは「情熱が足りないから」だとされるのです。

アリストテレスの善き生 — 「好き」を超えて

アリストテレスのエウダイモニアの概念は、「好き」という主観的感情を超えた幸福の基準を提供します。アリストテレスにとって、善き生とは快楽の追求ではなく、徳に基づく活動です。

重要なのは、アリストテレスが幸福を個人的な営みとしてではなく、共同体のなかの活動として捉えていた点です。幸福は孤立した個人の自己実現ではなく、友人関係、政治参加、共同体への貢献のなかで実現される。

「好きなことで生きる」イデオロギーは、幸福を個人化しています。自分の好きなことを見つけ、自分の力で実現する — すべては個人の問題です。しかしアリストテレス的に考えれば、幸福は共同体の条件 — 正義、友愛、共通善 — なしには成立しません。政治哲学が教えるように、個人の幸福は社会の正義と不可分なのです。

ハイデガーの「被投性」 — 選べないものへの応答

ハイデガーは、人間の存在を**「被投性(Geworfenheit)」**という概念で捉えました。私たちは自分で選んだわけではない状況 — 時代、場所、身体、家庭環境 — のなかに「投げ込まれて」いる。

「好きなことで生きる」は、この被投性を無視しています。好きなことを「自由に」選べるという前提は、生まれた環境、階級、経済的条件といった選べないものの影響を軽視しています。富裕な家庭に生まれた人と、貧困のなかで育った人では、「好きなことを仕事にする」可能性は根本的に異なります。

ハイデガー的に言えば、重要なのは「好きなこと」を選ぶことではなく、自分が投げ込まれた状況に対して自覚的に応答することです。与えられた条件のなかで、自分なりの意味を見出していく — これが実存的な真正性なのです。

「好き」以外の労働の価値

「好きなことで生きる」イデオロギーが見落としているのは、「好き」以外の労働の価値です。

ケアワーカーの仕事、ゴミ収集、農作業 — これらは必ずしも「好き」で選ばれる仕事ではありません。しかし、これらの仕事は社会の維持にとって不可欠であり、そこに社会的な意味と尊厳があります。「好きなことで生きる」言説は、こうした必須の労働を不可視化し、その従事者の尊厳を暗黙のうちに損なっているのです。

おわりに — 自由としての労働、義務としての労働

「好きなことで生きる」という理想は、決して悪いものではありません。しかしそれが唯一の正解として押しつけられるとき、それはイデオロギーになります。好きなことが見つからなくても、好きなことで生きていなくても、人生は十分に意味あるものでありえます。

哲学が教えてくれるのは、幸福は「好き」の充足だけにあるのではなく、責任、連帯、義務、配慮のなかにもあるということです。好きなことをすることが自由であるように、好きでないことに意味を見出すこともまた、人間的な自由の一形態なのです。

人間は、自らの状況の限界のなかで自由なのであり、自由は常に状況のなかの自由である。 — サルトル


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