「夢を持て」が苦しい理由 — 目的論と幸福の哲学

はじめに — 「夢」の圧力

卒業式のスピーチ、自己啓発書、企業の採用面接——あらゆる場面で「夢を持て」「目標を設定しろ」というメッセージが発せられます。夢を追いかける人は輝いていて、夢のない人は空虚である——こうした価値観は、現代社会において一種の正統派イデオロギーとなっています。

しかし、「夢を持て」という要求は、少なくない人々にとって重荷です。夢が見つからないことへの焦り、夢を持つ人への劣等感、夢を追って挫折する恐怖——「夢を持て」は励ましであるはずなのに、なぜ苦しみを生むのか。哲学はこの問題をどのように照らし出すでしょうか。

アリストテレスの目的論 — 万物には目的がある

アリストテレスの哲学は、あらゆる存在にはその固有の目的(テロス)があるという目的論的世界観に基づいています。どんぐりの目的は樫の木になることであり、人間の目的はエウダイモニア(善い生・幸福)を実現することです。

アリストテレスの世界観においては、「夢を持て」は不要な命令です。なぜなら、人間の目的は人間の本性そのもののなかに内在しているからです。自分の本性——理性的な魂——に従って卓越性(アレテー)を発揮すれば、自ずとエウダイモニアに到達する。

目的論の崩壊

しかし近代以降、アリストテレス的な目的論は科学革命によって決定的に弱体化しました。自然には「目的」がなく、あるのは因果的なメカニズムだけである——これが近代科学の世界観です。人間にもあらかじめ定められた「目的」はない。

目的論が崩壊した世界で、「夢を持て」は失われた目的を個人の努力で補填せよという要求になります。かつて自然的・宗教的な秩序が提供してくれた人生の意味を、いまや個人が自力で調達しなければならない。これは途方もない負担です。

ストア派の教え — コントロールできないものへの執着

ストア哲学は、「夢」の追求が孕む問題をすでに見抜いていました。エピクテトスの有名な区分——「自分の力の及ぶもの」と「及ばないもの」——に照らせば、夢の多くは「自分の力の及ばない」領域に属しています。

オリンピック選手になりたい、ベストセラー作家になりたい、大企業のCEOになりたい——これらの夢が実現するかどうかは、才能、機会、運、社会的環境など、自分ではコントロールできない要因に大きく左右されます。ストア派の視点からすれば、コントロールできない結果に幸福を賭けることは、苦しみの原因なのです。

プロセスと結果

ストア派は、結果ではなく**プロセス(自分の態度と行為)**に集中することを勧めます。最善を尽くすこと自体が目的であり、結果は受け入れるべきもの。「夢を叶える」ことではなく、「いま自分にできることに集中する」こと——これがストア的な生の技法です。

キルケゴールの実存 — 未来への投企の不安

キルケゴールは、人間の実存を「可能性の存在」として捉えました。人間は未来に向かって自己を投企する存在であり、可能性の前に立つことは不安を伴います。

「夢を持つ」とは、特定の可能性に賭けることです。しかしキルケゴールが示したように、ある可能性を選ぶことは他の可能性を断念することでもある。夢を持つことの苦しさの一部は、この可能性の断念に伴う喪失感から来ています。

「あれか、これか」の重み

キルケゴールは「あれか、これか」の選択が実存的な「飛躍」を必要とすることを強調しました。夢を選ぶことは、理性的な計算によっては完結しない。どこかで、根拠のない飛躍を行わなければならない。「正しい夢」を見つけてから飛ぼうとすれば、永遠に飛べないかもしれません。

ニーチェの永劫回帰 — 夢なき人生を肯定できるか

ニーチェの永劫回帰の思想は、こう問いかけます——この人生を、夢が叶わないことも含めて、もう一度、そして永遠に繰り返してもよいか。

ニーチェにとって重要なのは、「偉大な夢を持つ」ことではなく、人生全体を肯定できるかということです。運命愛(amor fati)——起こることすべてを愛する態度——は、特定の夢の達成とは異なる次元の「肯定」です。

超人と夢

ニーチェの「超人」は、特定の夢を追う人ではなく、自らの価値を自ら創造する人です。超人は社会が与える夢——成功、名声、富——を超えて、自分自身の尺度で生きる。「夢を持て」という社会的要求に従うこと自体が、ニーチェの視点からすれば「畜群的」なのかもしれません。

「夢」の社会的構築

夢産業

「夢」は現代社会においてひとつの産業です。自己啓発セミナー、コーチング、目標設定ワークショップ——「夢を見つけるお手伝い」をビジネスにする人々がいる。「夢を持つべきだ」というメッセージ自体が、消費を駆動するマーケティングの一環なのかもしれません。

マルクス的に言えば、「夢を持て」は、労働者が疎外された労働に従事し続けるための動機づけ装置です。「いまの辛い仕事は夢の実現のためだ」という物語が、現在の不満を先送りにさせる。

夢の標準化

「夢を持て」のメッセージが暗黙に前提している「夢」の内容は、しばしば驚くほど画一的です。「起業」「海外留学」「クリエイティブな仕事」——社会的に承認される「夢」のレパートリーは限られています。ルソーが批判した「自尊心(amour-propre)」——他者の目を通じた自己評価——は、夢の選択においても作用しているのです。

哲学が示す別の道

エピクロスの小さな幸福

エピクロス派の哲学は、壮大な夢の追求ではなく、日常のなかの小さな喜び——友人との語らい、素朴な食事、穏やかな時間——に幸福を見出す生き方を提案します。エピクロスの幸福論は、「夢」のスケールの大きさと幸福の度合いは比例しないことを教えています。

ウィトゲンシュタインの沈黙

ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と述べました。人生の意味や目的は、命題として語り尽くせるものではないかもしれない。「夢は何ですか」という問いに対して「分かりません」と答えることは、無知の表明ではなく、人生の深みに対する誠実な態度かもしれないのです。

おわりに

「夢を持て」は善意から発せられる言葉であることが多い。しかしその背後には、近代的な目的論の崩壊、能力主義のイデオロギー、消費社会の論理が複雑に絡み合っています。

夢がないことを恥じる必要はありません。むしろ、「夢を持たなければならない」というプレッシャーそのものを問い直すこと、夢の達成とは異なる幸福のかたちを模索すること——それが哲学の提供しうる処方箋です。

アリストテレスのエウダイモニア、ストア派の心の平穏、ニーチェの運命愛——これらはいずれも、特定の「夢」の達成に依存しない幸福のかたちを示しています。大きな夢を持つことが美しいのではなく、どのような状況にあっても善く生きることが美しいのです。

幸福は善き魂の活動である。——アリストテレス

関連項目