平等と公平の違い — 哲学が照らす「正しい分配」の条件
はじめに — 同じりんごを配ること、それは正しいか
教室に10個のりんごがあり、10人の生徒がいるとします。一人に1個ずつ配れば「平等」です。しかし、朝食を食べてきた生徒と、昨日から何も食べていない生徒に同じ数を配ることは、本当に「正しい」のでしょうか。
この素朴な例は、現代の政治的議論において最も論争的なテーマの一つ — 平等(equality)と公平(equity)の違い — の核心を突いています。全員に同じものを与えることと、各人の状況に応じて異なるものを与えること。この二つの原理は、しばしば衝突します。
アリストテレスの配分的正義 — 比例的平等という着想
平等と公平の区別は、古代ギリシアにまで遡ります。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、正義を「配分的正義」と「矯正的正義」に分けました。
配分的正義において、アリストテレスは算術的平等と比例的平等を区別します。算術的平等は全員に同じ量を与えることですが、配分的正義が要求するのは比例的平等 — すなわち、各人の「功績(アクシア)」に比例した分配です。
しかし、ここに根本的な問いが潜んでいます。「功績」とは何でしょうか。能力か、努力か、生まれか、社会的地位か。アリストテレスの時代には、自由市民と奴隷、男性と女性のあいだの不平等が自然なものとして受け入れられていました。彼の正義論は、その時代の偏見を反映しています。
ロールズの格差原理 — 最も恵まれない者を基準にする
ロールズの正義論は、平等と公平の関係に画期的な枠組みを提供しました。彼の「格差原理」は、社会的・経済的不平等は最も恵まれない人々の利益になる場合にのみ正当化されると主張します。
これは単純な平等主義ではありません。ロールズは、完全な平等よりも一定の不平等があったほうが社会全体の生産性が高まり、結果として最も恵まれない層の生活水準が上がる可能性を認めています。しかしその不平等は、あくまで底辺を引き上げるためのものでなければなりません。
「無知のヴェール」と共感の限界
ロールズの「無知のヴェール」は、自分がどの立場に生まれるか分からないなら、最も恵まれない立場のリスクを最小化する制度を選ぶだろうという推論に基づいています。これは公平の原理を自己利益の合理的計算から導き出す巧みな戦略です。
しかし批判者は問います。現実の人間は「無知のヴェール」の背後にはいないと。自分の特権を知っている人々に、それを手放すよう説得するには、理性的な議論だけでは不十分かもしれません。
マルクスの批判 — 形式的平等の欺瞞
マルクスは、ブルジョア的な「平等」の概念を根本的に批判しました。法の前の平等、市場における自由な交換 — これらの形式的平等は、実質的な不平等を覆い隠すイデオロギー的装置にすぎないと。
労働者と資本家が「自由に」労働契約を結ぶとき、形式上は対等な関係です。しかし実質的には、生産手段を持たない労働者には、不利な条件でも契約を受け入れる以外の選択肢がありません。マルクスにとって、形式的平等のもとでの実質的不平等こそが、近代社会の根本的な矛盾でした。
この批判は現代にも生きています。「機会の平等」を保障するだけで十分なのか、それとも「結果の平等」にまで踏み込むべきなのか。この問いは、アファーマティブ・アクション、累進課税、社会保障制度など、あらゆる政策論争の底流にあります。
功利主義の視点 — 最大幸福と分配の問題
功利主義は「最大多数の最大幸福」を道徳の基準としますが、分配の問題に対しては独特の困難を抱えています。
限界効用逓減の法則を考慮すれば、100万円の追加所得は貧しい人にとっては大きな幸福の増加をもたらしますが、億万長者にとってはわずかな変化しかもたらしません。したがって、功利主義は富の再分配を支持する論拠を提供します。より平等な分配のほうが、社会全体の幸福の総量は大きくなるからです。
しかし、極端な再分配は勤労意欲を削ぎ、社会全体の富を減少させるかもしれません。功利主義は平等そのものを目的とするのではなく、あくまで幸福の最大化の手段として平等を評価するのです。
能力アプローチ — センとヌスバウムの貢献
経済学者アマルティア・センと哲学者マーサ・ヌスバウムが提唱した**能力アプローチ(capability approach)**は、平等と公平の議論に新たな次元を加えました。
このアプローチは、所得や財の分配ではなく、人々が実際に何をすることができ、何になることができるか — すなわち「機能」と「潜在能力」 — に注目します。同じ額の所得があっても、障害を持つ人とそうでない人では、そこから引き出せる「機能」は異なります。真の公平は、人々の多様な状況を考慮して、等しい潜在能力を保障することにあるのです。
現代日本における平等と公平
日本社会では、「平等」は強力な規範として機能してきました。学校教育における「みんな同じ」の文化、年功序列の賃金体系、「出る杭は打たれる」という格言。しかし近年、この均質的な平等観は、さまざまな方面から揺さぶられています。
政治哲学の観点から見れば、日本社会が直面しているのは、算術的平等から比例的平等への移行 — すなわち、「同じに扱うこと」から「公正に扱うこと」への転換の困難です。
具体的な論争点
- 教育 — 一律の教育カリキュラムか、個々の能力に応じた差異化された教育か
- 労働 — 年功序列(形式的平等)か、成果主義(実質的公平)か
- 社会保障 — 普遍的給付か、必要に応じた給付か
これらの論点において、「平等」と「公平」のどちらを優先するかは、単なる政策技術の問題ではなく、私たちがどのような社会を望むかという価値判断の問題なのです。
おわりに — 正しい分配は存在するか
平等と公平は、対立する概念ではなく、正義の異なる側面です。全員を同じに扱う平等も、各人の状況に応じた公平も、ともに「正しい分配」の一側面を捉えています。問題は、どの場面でどちらの原理を優先するかという判断です。
倫理学の歴史は、この判断に対する唯一の正解は存在しないことを教えてくれます。しかしそれは、答えを追求することが無意味だということではありません。むしろ、常に問い続けることそのものが、公正な社会を維持するための条件なのです。
各人にその人にふさわしいものを。 — アリストテレス