フェイクニュースと真理 — ポスト真実の時代に哲学は何を語れるか
はじめに — 真実が力を失うとき
2016年の英語圏において「ポスト真実(post-truth)」がオックスフォード辞典の「今年の言葉」に選ばれました。客観的な事実よりも感情や個人的な信念が世論の形成に影響を与える状況を指す言葉です。
フェイクニュースの問題は、単に「嘘が広まっている」ということではありません。それは、真理そのものの社会的地位が低下しているという、より深刻な事態を指しています。事実を提示しても信じてもらえない。データを示しても「それは偏っている」と退けられる。専門家の見解は「エリートの意見」として軽視される。
哲学は、真理とは何か、なぜ真理が重要なのかを2500年にわたって問い続けてきました。この問いが今ほど切実な意味を持つ時代はないでしょう。
プラトンのドクサ批判 — 意見と真理の区別
プラトンは、**ドクサ(臆見・意見)とエピステーメー(知識・真理)**を峻別しました。ドクサは感覚に基づく不確実な信念であり、エピステーメーはイデアの認識に基づく確実な知です。
プラトンが民主制に懐疑的であった理由の一つは、民主制がドクサの支配 — つまり、真理ではなく多数の意見によって政策が決まるシステム — に陥りやすいことでした。プラトンの政治思想における哲人王の理想は、ドクサではなくエピステーメーに基づいた統治を目指すものでした。
フェイクニュースが蔓延する現代は、プラトンの懸念が現実化した状況と言えるかもしれません。SNS上では、事実確認されていない「意見」が、検証された「事実」と同等の — あるいはそれ以上の — 影響力を持ちます。
ソフィストの復活
プラトンが激しく批判した**ソフィスト(詭弁家)**は、真理を追究するのではなく、言論によって人々を説得する技術を教えた教師たちでした。ソクラテスがソフィストと対決したのは、彼らが真理と説得を区別しなかったからです。
現代のフェイクニュース産業は、ソフィストの現代版と見ることができます。彼らが関心を持つのは「何が真実か」ではなく「何がクリックされるか」「何がシェアされるか」です。真理は、エンゲージメントの前に後退しているのです。
アリストテレスの修辞学 — 説得の技術と真理
アリストテレスは、プラトンとは異なり、修辞学(レトリケー)を必ずしも否定しませんでした。彼は『修辞学』において、説得の手段を三つに分類しました。
- エトス(人格) — 語り手の信頼性による説得
- パトス(感情) — 聴衆の感情に訴える説得
- ロゴス(論理) — 論理的な議論による説得
フェイクニュースの効果を分析すると、それが主にパトス(恐怖、怒り、不安などの感情)に依拠していることが分かります。ロゴスによる反論が効かないのは、フェイクニュースの受容が論理的な判断ではなく、感情的な反応に基づいているからです。
アーレントの「嘘」と政治
ハンナ・アーレントは、「真理と政治」というエッセイのなかで、政治における嘘の役割を分析しました。アーレントによれば、政治的な嘘は古くから存在しますが、近代の全体主義は嘘を新たな次元に引き上げました。
全体主義のプロパガンダは、単なる嘘ではありません。それは現実そのものを組み替える試みです。事実を否定するだけでなく、別の「事実」を創造し、大衆がその「事実」を信じるように仕向ける。アーレントが指摘したのは、十分に繰り返された嘘は、人々の現実認識そのものを変えてしまうということでした。
事実の脆弱性
アーレントは、事実が論理的真理とは異なり、本質的に脆弱であることを指摘します。「2+2=4」は否定しようがありませんが、歴史的事実は容易に否定、歪曲、隠蔽されます。フェイクニュースが事実の領域で猛威を振るうのは、事実のこの脆弱性に乗じているからです。
ニーチェの遠近法主義 — 「客観的真理」は存在するか
ニーチェの遠近法主義は、しばしばポスト真実の思想的源泉として引用されます。ニーチェは「事実というものは存在しない。あるのは解釈だけだ」と述べました。この言葉は、「真理は相対的であり、何でもあり」という主張として読まれることがあります。
しかし、この読み方はニーチェの意図を歪曲しています。ニーチェは、すべての解釈が等価であるとは主張していません。ある解釈は別の解釈より「力強く」、より豊かな理解を可能にします。ニーチェの遠近法主義は、唯一の「神の視点」を否定するものですが、知的な誠実さや解釈の質を否定するものではありません。
フェイクニュースの問題は、ニーチェ的な遠近法主義とは無関係です。フェイクニュースは「別の解釈」を提示しているのではなく、意図的に虚偽を流布しているのです。
プラグマティズムの真理論 — 真理は何の「役に立つ」のか
プラグマティズムの真理観は、フェイクニュース問題に対して両義的な関係を持ちます。
ウィリアム・ジェイムズの「真理とは、信じることが我々にとって善いもの」という定式は、しばしば「便利な嘘も真理になりうる」という意味に誤解されます。しかしジェイムズが言いたかったのは、真理は抽象的な対応関係ではなく、探究の実践のなかで検証されるということです。
ジョン・デューイは、真理を「保証された主張可能性」として定義しました。ある主張が「保証された」ものになるのは、公共的な探究のプロセスを経た場合に限られます。この観点からすれば、フェイクニュースは「検証を経ていない」という理由で、真理の候補にすらなりません。
認識論的徳 — 知的な品性の形成
現代の認識論において注目されている**認識論的徳(epistemic virtue)**の概念は、フェイクニュース問題に対する重要なアプローチを提供します。
認識論的徳とは、知的活動において発揮されるべき品性のことで、以下のようなものが含まれます。
- 知的誠実さ — 自分にとって不都合な事実も認める態度
- 知的謙虚さ — 自分が間違っている可能性を受け入れる態度
- 知的勇気 — 多数派に反する見解でも、根拠があれば表明する態度
- 知的公正さ — 対立する見解に公平に耳を傾ける態度
フェイクニュースに対する最も根本的な防御は、技術的なファクトチェックだけでなく、こうした知的な品性の形成にあるのかもしれません。
構造的問題 — プラットフォームと真理
フェイクニュースの蔓延は、個人の無知や悪意だけでは説明できません。SNSプラットフォームのアルゴリズムは、感情的に強い反応を引き出すコンテンツを優先的に拡散します。真実かどうかは、拡散の条件ではないのです。
フーコーの権力/知の枠組みで言えば、何が「真実」として流通するかは、プラットフォームの構造によって条件づけられています。アルゴリズムは、真理と虚偽を区別しませんが、エンゲージメントの高低は区別します。この構造的な非対称性が、フェイクニュースの温床となっているのです。
おわりに — それでも真理を手放さない
ポスト真実の時代において、哲学が守るべきものは真理への誠実さです。それは、「唯一の絶対的真理が存在する」という素朴な実在論ではなく、真理を追究する態度を放棄しないという倫理的コミットメントです。
論理学は、推論の妥当性を検証する道具を提供します。認識論は、知識の条件を吟味する枠組みを提供します。そして倫理学は、真理への誠実さがなぜ重要であるかを根拠づけてくれます。フェイクニュースの時代に、哲学の存在意義はかつてないほど明らかなのです。
真理は、追究されるときにのみ力を持つ。追究を放棄したとき、嘘が勝利する。