炎上の倫理学 — 正義感はなぜ暴走するのか
はじめに — 炎上は「正義」か「暴力」か
誰かの不適切な発言がSNS上で拡散され、数時間のうちに数千、数万の非難コメントが殺到する。企業はアカウントを削除し、個人は社会的生命を失う。これがいわゆる「炎上」です。
炎上に参加する人々の多くは、自分が正しいことをしていると信じています。差別、不正、不誠実に対する怒りは正当なものでしょう。しかし、その「正しさ」はしばしば制御を失い、当初の不正とは釣り合わない規模の制裁をもたらします。
炎上の倫理学を考えるとは、正義感そのものを問い直すということです。本稿では、倫理学の複数の伝統を動員し、この現象の哲学的分析を試みます。
ミルの危害原理と「社会的制裁」の限界
J.S.ミルは『自由論』において、危害原理 — 他者に危害を与えない限り、個人の自由は制限されるべきではない — を提唱しました。同時にミルは、法律ではなく世論による圧力、すなわち**「社会的暴虐」**を最も危険な自由の侵害として警告しました。
炎上は、まさにミルが恐れた社会的暴虐の21世紀版です。法律による処罰ではなく、集団的な社会的制裁によって個人を排除する。その制裁には、法的手続きにある「無罪推定」「弁護の権利」「比例原則」が一切適用されません。
ミルの議論が示唆するのは、不快な言論と有害な言論は区別されなければならないということです。誰かの発言が不快であることは、その人を社会的に抹殺してよい理由にはなりません。しかし炎上の場では、不快さと有害さの境界は往々にして曖昧にされます。
「表現の自由市場」は機能しているか
ミルは、自由な議論の場において真理は誤謬に打ち勝つと信じていました。しかしSNSの「表現の自由市場」は、ミルが想定したものとは大きく異なります。アルゴリズムは怒りの感情を増幅し、冷静な反論よりも感情的な攻撃が拡散される。匿名性は無責任な発言を促し、議論は対話ではなく集団的な糾弾へと変質します。
ミルの危害原理は重要な出発点ですが、SNS時代においてはその適用条件そのものを再検討する必要があります。
カントの義務論 — 人格の尊厳は「悪人」にも適用されるか
カントの倫理学は、すべての人間を目的それ自体として扱うよう命じます。定言命法の第二形式 — 「汝の人格ならびに他のすべての人格における人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単なる手段としてのみ扱ってはならない」。
この原理は、炎上の対象となった人にも適用されます。いかに不適切な発言をした人であっても、その人格の尊厳は侵してはならない。炎上において人々は、批判対象を「まともな人間ではない」「社会のゴミ」として扱いがちですが、それはカント的な観点からは明確な倫理的過失です。
さらにカントの義務論は、行為の動機を問います。炎上に参加する動機は本当に「正義の実現」でしょうか。それとも、集団に属する安心感、道徳的優位に立つ快感、日常のストレスの発散といった自己満足的な動機が隠されてはいないでしょうか。
アリストテレスの「怒りの徳」
アリストテレスは、怒りそのものを否定しませんでした。『ニコマコス倫理学』において彼は、適切な対象に、適切な程度で、適切な時に、適切な目的で怒ることを徳として認めています。
問題は、怒りが「過剰」になるか「不足」になるかです。不正に対してまったく怒らないのは無感覚であり、卑屈です。しかし、些細なことに激昂し、際限なく報復を求めるのは怒りの過剰であり、これも徳ではありません。
炎上における怒りの多くは、アリストテレスの基準からすれば過剰です。一つの失言に対して数万人が攻撃するのは、「適切な程度」を明らかに逸脱しています。また、怒りの対象と直接の関係がない人々が参加するのは、「適切な対象に」という条件も満たしていません。
中庸としての適切な批判
アリストテレスの中庸の思想は、炎上と沈黙の間に第三の道を示唆します。不正を見て見ぬふりをするのでもなく、集団的な攻撃に加わるのでもなく、冷静に批判的意見を述べること。それは勇気と節制の徳を必要とする、簡単ではない選択です。
ニーチェの「ルサンチマン」
ニーチェは『道徳の系譜』において、**ルサンチマン(怨恨)**という概念を提示しました。弱者が強者への恨みを「道徳」に転化する心理メカニズムです。
炎上の構造には、しばしばルサンチマンが作動しています。成功者の失言、有名人のスキャンダル、権力者の失態 — これらに対する「正義の怒り」の背後に、日常の不満や嫉妬の発散が隠されていないでしょうか。
ニーチェの視点は不快かもしれません。しかし、自分の怒りの源泉を正直に見つめることは、倫理的に成熟するための不可欠なステップです。「私はこの人の発言に怒っているのか、それともこの人の成功に嫉妬しているのか」。この問いを自らに向ける誠実さが求められます。
炎上の構造的問題
個人の倫理だけでなく、炎上には構造的な問題が存在します。
第一に、非対称性の問題です。一人の発言に対して数万人が攻撃するとき、その力の不均衡は明らかです。一対一の批判と一対一万の集団攻撃は、質的に異なる現象です。
第二に、不可逆性の問題です。インターネット上の炎上の記録は半永久的に残ります。一度の失言が、その人の人生を永遠に規定する「デジタルタトゥー」となる。政治哲学の文脈で言えば、これは更生の可能性を否定する永続的な刑罰に等しい。
第三に、快楽化の問題です。炎上への参加は、道徳的優越感と集団的一体感という快楽をもたらします。この快楽が、批判の本来の目的 — 不正の是正 — を覆い隠し、炎上をエンターテインメントに変質させてしまう。
おわりに — 怒る前に、問う
炎上の倫理学が教えるのは、正義感は無条件に信頼できるものではないということです。正義感は重要な道徳的感情ですが、それが適切に機能するためには、理性による制御と自己反省が不可欠です。
次に誰かの発言に怒りを覚えたとき、投稿ボタンを押す前に、次の問いを自らに向けてみてください。
- この怒りは「適切な対象に、適切な程度で、適切な目的で」向けられているか
- 自分の批判は、相手の人格の尊厳を侵していないか
- この行動の動機は純粋な正義感か、それとも別の感情が混じっているか
これらの問いに誠実に答えること。それが炎上の時代における、哲学的な倫理の実践です。
怒りは容易い。しかし、適切な対象に、適切な度合いで、適切な時に、適切な目的で、適切な仕方で怒ること、それは容易くない。 — アリストテレス