友情は幻想か — アリストテレスからSNS時代まで

はじめに — 「友達」の数とは何か

SNSのプロフィールに表示される「友達」の数。フォロワー数千人、「友達」数百人 — 現代のデジタル環境では、友人関係は数値化され、可視化されています。しかし、その「友達」のうち、本当に悩みを打ち明けられる人は何人いるでしょうか。深夜に電話をかけて助けを求められる人は。

社会学者ロビン・ダンバーは、人間が安定的に維持できる社会的関係は約150人が上限であるとし(ダンバー数)、そのなかで親密な友人関係は5人程度に限られると論じました。では、友情とは本来どのようなものであり、私たちはそれを本当に実現できているのでしょうか。

アリストテレスの友愛論 — 三つの友情

アリストテレスの倫理学は、友愛(フィリア)についての哲学史上最も体系的な議論を展開しています。アリストテレスは友情を三つの種類に区別しました。

第一に「有用性に基づく友情」。ビジネス上の付き合いや利害関係に基づく友情です。互いに利益があるから続く関係であり、利益がなくなれば解消されます。

第二に「快楽に基づく友情」。一緒にいて楽しいから付き合う関係です。若者の友情の多くはこの種類に属するとアリストテレスは観察しました。趣味や感性が変われば、関係も変化します。

第三に「徳に基づく友情」。これこそが真の友情であり、相手の徳(卓越性)を認め、互いの善を願う関係です。この友情は稀であり、時間をかけて育まれるものです。アリストテレスは「友人を多く持つことはできない」と述べています。

「もうひとりの自分」としての友

アリストテレスは真の友人を「もうひとりの自分(alter ego)」と呼びました。友人とは、自分自身を映す鏡であり、自分の徳と欠点を客観的に見せてくれる存在です。徳倫理学の伝統において、友情は単なる感情的なつながりではなく、道徳的な成長の条件として位置づけられています。

この視点からすれば、SNS上の「友達」の大半は、アリストテレスの分類における第一・第二の友情にすぎません。情報の共有や娯楽の共有に基づく関係は、それ自体として価値がありますが、徳に基づく真の友情とは質的に異なるのです。

モンテーニュの友情 — 「なぜなら彼だったから、なぜなら私だったから」

16世紀のフランスの思想家モンテーニュは、親友エティエンヌ・ド・ラ・ボエシとの友情について、哲学史上最も美しいテクストのひとつを残しました。「なぜ彼を愛していたか」と問われたモンテーニュは、こう答えました。「なぜなら彼だったから。なぜなら私だったから(Parce que c’etait lui, parce que c’etait moi)」。

モンテーニュにとって、真の友情は理由を超えたものです。有用性でも快楽でもなく、説明不可能な魂の共鳴としての友情。二つの魂が融合し、境界が消える — モンテーニュはこの友情を、結婚よりも深い絆だと語りました。

友情の理想化の危険

しかし、モンテーニュの友情論には理想化の問題があります。モンテーニュとラ・ボエシの関係は、同じ社会的地位の男性知識人同士の、きわめて特殊な関係でした。この特殊な経験を「友情の本質」として普遍化してよいのか。ジェンダー、階級、文化的背景の異なる人々のあいだの友情は、モンテーニュのモデルでは捉えきれないかもしれません。

デリダの「友愛の政治」— 「おお、友よ、友など存在しない」

デリダは『友愛の政治学』(1994年)において、アリストテレスに帰せられる「おお、友よ、友など存在しない(O philoi, oudeis philos)」という言葉から出発し、友情の概念を脱構築しました。

デリダが指摘するのは、西洋の友情概念が同質性と兄弟愛に基づいてきたという事実です。「友」は「同じ」ものを共有する者 — 同じ価値観、同じ文化、同じ社会的地位 — として想定されてきた。この友情概念は、「他者」を排除する論理と表裏一体です。

来たるべき友情

デリダが模索するのは、同質性ではなく差異に基づく友情の可能性です。まだ知らない他者、予測不可能な他者との「来たるべき友情」。それは、既存の共通基盤を前提としない、開かれた関係性です。ポスト構造主義的な視点は、友情を固定的な関係ではなく、つねに生成途上にある出来事として捉え直すのです。

ニーチェの友情 — 「星の友情」

ニーチェは『悦ばしき知識』のなかで「星の友情」という美しい概念を提示しました。かつて深い友情で結ばれていた二人が、人生の道程のなかで離れていく。しかし、その離別は友情の失敗ではなく、それぞれが自らの道を歩む勇気の表現です。

「地上で私たちは敵にならざるをえなかったのかもしれない。しかし天空で、私たちの友情はなおも確かである」。ニーチェの星の友情は、永続的な近接性を友情の条件としない。それぞれが自律した個人として成長し、たとえ道が分かれても、互いの存在を遠くから肯定し続ける。この友情観は、SNS時代の「つながり続けなければならない」というプレッシャーに対する、美しい対案です。

SNS時代の友情 — 量か質か

デジタル技術は友情の形を根本的に変えました。地理的な距離を超えてつながり続けることが可能になった一方で、関係の「メンテナンス」のコストが増大しています。誕生日のメッセージ、近況報告へのリアクション、グループチャットへの参加 — これらの「友情的義務」は、SNS上の関係を維持するための労働になっています。

SNSと実存主義で論じられているように、デジタルな自己呈示は常に編集された自己です。SNS上で見る友人の生活は、選択的に公開されたハイライトにすぎません。この非対称性は、友情に嫉妬と不安を持ち込みます。

おわりに — 友情は幻想ではない、しかし稀有である

友情は幻想なのか。アリストテレスが語った「徳に基づく友情」、モンテーニュが経験した魂の融合、ニーチェが描いた星の友情 — これらが幻想であるとは言えません。しかし、これらが稀有であるという事実からは目を背けるべきではないでしょう。

重要なのは、「友達がたくさんいる」ことではなく、深い友情を育む条件を理解することです。真の友情は、時間、信頼、脆弱性の相互的な共有を必要とします。それはSNSの「友達申請」では成立しません。しかし、テクノロジーがどれだけ変化しても、人間の根源的な友情への欲求 — 他者のなかに自分を見出し、他者の善を自分の善として喜ぶ欲求 — は失われないでしょう。

友情が幻想なのではありません。友情が容易に手に入るという想定が幻想なのです。

関連項目