「成長信仰」はなぜ終わらない — 進歩の哲学と脱成長の思想
はじめに — 成長なき世界は想像できるか
「経済成長率3%を目指す」「GDPを倍増させる」「持続的な成長を実現する」。政治家も経済学者もメディアも、成長を当然の善として語ります。成長が止まることは「停滞」と呼ばれ、マイナス成長は「後退」と呼ばれます。
しかし、なぜ成長が善なのかを、私たちはどれほど厳密に考えたことがあるでしょうか。有限な地球の上で無限の成長を追求することに矛盾はないのか。成長が幸福に直結しないことを示すデータが積み上がるなかで、なぜ私たちは成長を「信仰」し続けるのか。
本稿では、「成長信仰」の哲学的根源を探り、それに対する批判的な視座を提供します。
進歩の哲学 — 啓蒙思想の遺産
成長信仰の根源は、18世紀の啓蒙思想にあります。啓蒙思想は、人類の歴史を進歩のプロセスとして捉えました。理性の力によって、人間は無知と野蛮を克服し、より良い社会へと前進していく。
コンドルセは『人間精神の進歩に関する歴史的展望の素描』において、人類の進歩が十の段階を経て展開すると論じました。科学の発展、政治制度の改善、道徳の向上 — すべてが一方向的に前進していく。
この進歩史観は、経済成長を当然視する現代の信念の哲学的基盤です。「以前より良くなるべきだ」「停滞は許されない」という感覚は、啓蒙思想が私たちの精神に刻み込んだ進歩のパラダイムの産物なのです。
進歩の直線性への疑問
しかし、歴史は本当に一方向的に進歩してきたのでしょうか。ルソーは、啓蒙の時代にあって早くも文明の進歩に疑問を投げかけました。ルソーによれば、科学と芸術の発展は人間の道徳を改善するどころか、むしろ腐敗させた。文明は不平等を生み出し、人間を自然な状態から引き離した。
ルソーの文明批判は、「成長=進歩=善」という等式に対する最も根源的な異議申し立てのひとつです。
ヘーゲルの歴史哲学 — 精神の自己展開
ヘーゲルは、歴史を精神(Geist)の自己展開のプロセスとして理解しました。歴史は弁証法的に — 正・反・合の運動を通じて — 展開し、最終的には精神の完全な自己認識に到達する。
ヘーゲルの歴史哲学は、「歴史には方向性がある」「歴史は発展する」という信念の哲学的な基礎を提供しました。経済成長の信仰は、このヘーゲル的な歴史観の世俗化された形態と見ることができます。歴史が精神の発展であるように、経済はGDPの増大によって発展する — そう信じられているのです。
ヘーゲルの弁証法と「成長の限界」
しかし、ヘーゲルの弁証法を真剣に受け取るなら、成長そのものが否定の契機を内に含んでいることを認めなければなりません。テーゼとしての成長は、アンチテーゼとしての環境破壊・資源枯渇・精神的空虚を生み出します。弁証法的な止揚(Aufhebung)は、成長の量的な延長ではなく、成長概念そのものの質的転換を要求するかもしれません。
アリストテレスの限度の思想 — クレマティスティケ批判
アリストテレスは『政治学』において、経済活動を二つに区別しました。
オイコノミケー(家政術) — 家庭や共同体の必要を満たすための経済活動。限度があり、共同体のよき生に奉仕する。
クレマティスティケー(金儲けの術) — 貨幣の増殖そのものを目的とする活動。本質的に無限であり、共同体のよき生とは無関係に際限なく拡大する。
アリストテレスは、クレマティスティケーを不自然な活動として批判しました。なぜなら、あらゆる自然的な活動には固有の限度(ペラス)があるからです。食事には適量があり、運動には適度がある。しかし金儲けには、原理的に限度がない。「もっと多く」が永遠に続くのです。
現代の経済成長信仰は、アリストテレスのクレマティスティケーのグローバルな実現にほかなりません。GDPの増大には限度がなく、「もっと多く」が永遠に追求される。アリストテレスならば、この無限の追求を自然に反するものとして批判するでしょう。
ハイデガーの技術論 — 「集立」としての成長
ハイデガーの技術論は、成長信仰に対する最も根源的な批判を含んでいます。ハイデガーによれば、近代技術の本質は**「集立(Gestell)」** — すべての存在者を利用可能な「用象(Bestand)」として立てること — にあります。
経済成長の論理は、この集立の最も純粋な表現です。自然は「資源」として、人間は「人的資源」として、時間は「効率」の観点から、すべてが成長のために動員されます。
ハイデガーが問うのは、このような世界了解の仕方を代替する可能性はあるのかということです。世界を「資源」としてではなく、「存在の贈与」として受け取ること。成長ではなく、存在の深さに目を向けること。これがハイデガーの技術批判が示唆する方向性です。
マルクスの資本蓄積論 — 成長の構造的必然
マルクスの分析は、成長が単なる信念ではなく資本主義の構造的必然であることを示しています。資本は本質的に自己増殖する価値であり、成長しなければ存続できません。投資は利潤を求め、利潤は再投資され、資本はさらに拡大する。
この構造においては、成長の停止は経済危機を意味します。企業は成長しなければ株価が下がり、雇用が失われ、社会不安が生じる。成長信仰は、だから単なるイデオロギーではなく、資本主義経済の構造的要請なのです。
マルクスの分析が示唆するのは、成長信仰を克服するためには、信念を変えるだけでは不十分だということです。成長を構造的に要求するシステムそのものを変革しなければならない。
脱成長の哲学 — 歴史哲学の転換
セルジュ・ラトゥーシュに代表される**脱成長(Décroissance)**の思想は、成長信仰からの離脱を主張します。脱成長は、経済規模の縮小を目指すのではなく、成長を至上の目的とする枠組みからの解放を求めるものです。
脱成長の哲学的基盤は、以下の洞察にあります。
- 有限性の受容。 地球は有限であり、無限の成長は物理的に不可能である。
- 質的な発展への転換。 量的な成長ではなく、関係の質、文化の深さ、生態系の健全さを追求する。
- 十分性(sufficiency)の価値。 「もっと多く」ではなく「十分であること」に価値を見出す。
これらは、エピクロスの節制、アリストテレスの限度、ストア派の自足といった古代哲学の知恵と深く共鳴しています。
おわりに — 成長の向こう側
「成長信仰はなぜ終わらない」のか。それは、進歩史観が私たちの思考の無意識的な前提になっているから、そして資本主義が構造的に成長を要求するから、という二つの理由によります。
しかし、有限な惑星の上で無限の成長を追求することの不合理さは、もはや否定できません。必要なのは、成長に代わる繁栄の概念を鍛え上げることです。量的な拡大ではなく、質的な深化。所有ではなく、関係。生産ではなく、配慮。
哲学は、二千五百年にわたって「よき生」を問い続けてきました。その蓄積は、成長の向こう側にある繁栄を構想するための、最も豊かな知的資源を提供してくれるのです。
自然は足る。飽くなき欲望は足りぬ。 — エピクロス