なぜ人は「いいね」に依存するのか — 快楽と承認の哲学

はじめに — 通知音のパブロフの犬

スマートフォンの通知音が鳴る。画面を見ると、自分の投稿に「いいね」がついている。胸に小さな快感が走る。しかし数時間後、その快感は消え、次の「いいね」を求めてまたスマートフォンに手を伸ばす。

この行動パターンは、心理学的には「間欠強化」と呼ばれるメカニズムで説明されます。しかし、なぜ人間はそもそもこのような仕組みに囚われやすいのでしょうか。その問いに答えるためには、心理学だけでなく、哲学の力が必要です。

本稿では、古代ギリシアのエピクロス主義からパスカルの人間論、そして現代の功利主義まで、「いいね」依存の哲学的な根を掘り下げます。

エピクロスの快楽論 — 「自然的でも必要でもない欲望」

古代ギリシアの哲学者エピクロスは、快楽を三つに分類しました。

  1. 自然的で必要な欲望 — 飢えを満たす食事、寒さを防ぐ衣服など
  2. 自然的だが必要でない欲望 — 美食や贅沢な住まいなど
  3. 自然的でも必要でもない欲望 — 名声、権力、際限のない富など

エピクロスは、幸福な生のためには第一の欲望を満たせば十分であり、第三の欲望は際限がなく、満たされることのない苦しみの源であると警告しました。

SNSの「いいね」は、まさにこの第三の欲望に該当します。それは生存に必要ではなく、自然な身体的欲求でもない。にもかかわらず、私たちはそれを強烈に渇望します。エピクロスの分類は2300年前のものですが、「いいね」依存の本質を驚くほど正確に言い当てています。

アタラクシア(心の平静)の喪失

エピクロスが人生の目標としたのは**アタラクシア(心の平静)**でした。これは激しい快楽の追求ではなく、苦痛と不安からの解放を意味します。穏やかな友情、知的な対話、質素な生活 — これらがエピクロスの理想でした。

「いいね」への依存は、このアタラクシアの対極にあります。投稿するたびに評価を気にし、数字の上下に一喜一憂する。心は絶えず揺れ動き、平静からはほど遠い。エピクロスならば、スマートフォンを庭園の外に置くよう助言するかもしれません。

パスカルの「気晴らし」論

17世紀フランスの思想家パスカルは、『パンセ』のなかで人間の行動を支配する根本的な原理を指摘しました。それが**「気晴らし(divertissement)」**です。

パスカルによれば、人間は自分自身と向き合うことに耐えられない生き物です。一人で静かな部屋に座っていること — それだけで人間は不安になり、退屈し、自分の惨めさを意識する。だから人間はあらゆる活動に没頭し、気晴らしを求める。狩猟、賭博、社交、戦争でさえも、その本質は「自分自身から目を逸らすこと」にあります。

人間の不幸はすべて、部屋のなかに一人で静かに座っていられないことに由来する。 — パスカル

SNSは、史上最も効率的な気晴らし装置です。無限にスクロールできるタイムライン、途切れることのない通知、常に更新されるコンテンツ。これらはすべて、私たちが自分自身の実存的な不安と向き合うことを巧みに妨げています。

「いいね」への依存は、単に快楽を求めているのではないのかもしれません。それは、パスカルが見抜いたように、自分自身の空虚さから逃走するための手段なのです。

功利主義の「快楽計算」とドーパミン

ベンサムの功利主義は、快楽を「強度」「持続性」「確実性」「近接性」「多産性」「純粋性」「範囲」の七つの基準で評価しました。この「快楽計算」の枠組みで「いいね」の快楽を分析してみましょう。

  • 強度 — 比較的弱い。激しい快楽ではなく、微弱な満足感
  • 持続性 — 極めて短い。数秒から数分で消える
  • 確実性 — 不確実。投稿しても反応があるとは限らない
  • 近接性 — 即時的。投稿後すぐに反応が返る
  • 多産性 — 低い。一つの「いいね」が他の快楽を生むわけではない
  • 純粋性 — 低い。快楽の後に不安や虚しさが伴いやすい

ベンサムの基準で評価すれば、「いいね」の快楽はきわめて質の低い快楽です。弱く、短く、不確実で、後味が悪い。にもかかわらず私たちがそれを追い求めるのは、**近接性(すぐに得られること)**が他のすべての欠点を覆い隠すからです。

J.S.ミルは師ベンサムを修正し、快楽には量だけでなく質的な差があると主張しました。「満足した豚であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」。この基準に従えば、「いいね」の快楽は「豚の満足」に近いものです。

キルケゴールの「美的段階」

キルケゴールは人間の実存を三つの段階に分けました。美的段階倫理的段階宗教的段階です。

美的段階に生きる人間は、瞬間的な快楽と刺激を追い求めます。退屈を最大の敵とし、つねに新しい経験を渇望する。しかし、その生は結局のところ絶望に行き着きます。快楽は飽き、刺激は鈍くなり、自己は空虚のまま残される。

「いいね」依存は、キルケゴールの美的段階の典型的な表現です。投稿のたびに新しい刺激を求め、反応の有無に一喜一憂し、しかしそこに持続的な意味や充実は見出せない。キルケゴールならば、この状態から脱するためには倫理的な決断 — 自己を引き受け、責任ある選択をすること — が必要だと説くでしょう。

「あれか、これか」の喪失

キルケゴールが重視したのは、真剣な選択の経験です。しかしSNSは、選択の重みを限りなく軽くします。投稿は削除できる。発言は撤回できる。アカウントは作り直せる。何も取り返しのつかないことはない — そのような環境では、キルケゴールが求めた「あれか、これか」の真剣さは育ちません。

依存の構造 — 欲望は自分のものか

ここで根本的な問いが浮かびます。「いいね」を求める欲望は、本当に私たち自身の欲望なのでしょうか。

フーコーの権力論に従えば、欲望は権力によって構成されます。「いいね」を求める気持ちは、自然に湧き上がったのではなく、プラットフォームの設計によって製造された欲望かもしれません。通知の仕組み、フィードのアルゴリズム、数値化されたリアクション — これらすべてが、私たちの欲望を特定の方向に誘導しています。

私たちは「自由に」SNSを使っているのではなく、SNSの設計者が意図した通りに行動しているにすぎないのかもしれません。この意味で、「いいね」依存は個人の弱さの問題ではなく、テクノロジーによる欲望の植民地化という構造的な問題です。

おわりに — 快楽の質を問い直す

「いいね」への依存から抜け出すために、禁欲や自己否定は必要ありません。必要なのは、快楽の質を見極める知恵です。

エピクロスが教えるように、真の快楽は心の平静のなかにある。パスカルが示すように、気晴らしの背後には直視すべき自己がある。ミルが主張するように、快楽には質の高低がある。キルケゴールが求めるように、美的段階を超えた実存のあり方がある。

スマートフォンの通知音が鳴ったとき、それに反応する前に一瞬立ち止まること。「この快楽は、自分が本当に求めているものか」と問うこと。その問いそのものが、依存からの解放への第一歩なのです。

満足した豚であるよりも、不満足な人間であるほうがよい。 — J.S.ミル


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