政治的正しさの限界 — 言葉の力と沈黙のあいだで

はじめに — 「正しい言葉」の時代

「ポリティカル・コレクトネス(PC)」は、現代社会で最も論争的な概念のひとつです。差別的な言葉を排除し、社会的弱者の尊厳を守るための配慮 — これが支持者の理解です。言論の自由を窒息させ、率直な議論を不可能にする検閲 — これが批判者の主張です。

しかし、賛否いずれの立場も、「言葉」がもつ力についての深い哲学的洞察を必要としています。言葉は単に現実を反映するのか、それとも現実を構成するのか。言語哲学の伝統が蓄積してきた知見は、ポリティカル・コレクトネスの意味と限界を考えるうえで不可欠な道具を提供してくれます。

言葉は世界を変えるか — 言語行為論の視点

イギリスの哲学者J.L.オースティンは、言葉が単に事実を描写するだけでなく、行為を遂行することを明らかにしました。「あなたを解雇します」と言うことは、解雇という行為そのものです。「あなたを侮辱します」と言うまでもなく、差別的な呼称を使うこと自体が差別という行為を遂行します。

この「言語行為論(speech act theory)」の視点は、ポリティカル・コレクトネスの理論的基盤のひとつを形成しています。差別的な言葉は単なる「表現」ではなく、差別という行為の遂行であり、実際に人々を傷つけ、社会的排除を強化する。したがって、差別的な言葉を規制することは、「表現の規制」ではなく「差別行為の規制」として正当化されうるのです。

「傷つける言葉」の範囲

しかしここで難問が生じます。どの言葉が「傷つける」のかを、誰が決めるのか。感じ方は人によって異なり、ある言葉が差別的かどうかの判断は文脈に依存します。「傷つける言葉」の範囲を際限なく拡大すれば、あらゆる批判や議論が「暴力」として禁じられる危険があります。

ミルの自由論 — 不快な言論の価値

ミルは『自由論』において、不快な言論、異端的な言論、多数派の感情を害する言論であっても、それを抑圧することは社会全体の利益に反すると論じました。なぜなら、第一に、抑圧された意見が真理である可能性がある。第二に、たとえ誤った意見であっても、それとの対決を通じて真理はより鮮明になる。第三に、異論なき「死んだドグマ」は、その意味を失い形骸化する。

ポリティカル・コレクトネスに対する批判の多くは、このミル的な論理に基づいています。差別的な言説を社会的に排除することは、短期的には弱者を保護するかもしれないが、長期的には差別の根底にある偏見と正面から向き合う機会を奪うのではないか。キャンセルカルチャーの問題もまさにこの文脈で議論されています。

ミルの限界 — 「思想の自由市場」は実在するか

しかし、ミルの議論は「思想の自由市場」— すべての意見が対等に競い合い、より良い論拠が勝利する場 — の存在を前提としています。現実には、発言力は社会的地位、経済力、メディアへのアクセスなどによって著しく不平等です。「自由な議論」が理論上は開かれていても、社会的弱者の声が構造的に届きにくい状況では、「自由市場」は強者の支配に帰結しかねません。

ウィトゲンシュタインと「言語ゲーム」

ウィトゲンシュタインの後期哲学は、言語の意味がその使用の文脈 — 「言語ゲーム」— によって決まることを示しました。同じ言葉でも、異なる文脈では異なる意味を持つ。「黒人」という言葉が学術的な文脈で使われるときと、差別的な意図で使われるときとでは、その言語行為としての機能はまったく異なります。

ウィトゲンシュタインの視点は、ポリティカル・コレクトネスの議論に重要な示唆を与えます。問題は特定の「語」そのものではなく、その使用の文脈と効果です。言葉のリストを作って「これは使ってよい、これはダメ」と機械的に判断することは、言語の本質的な文脈依存性を無視しています。

「語りえぬもの」と沈黙

ウィトゲンシュタインの有名な命題「語りえぬものについては沈黙しなければならない」は、ポリティカル・コレクトネスの文脈で逆説的な意味を帯びます。ある種の経験 — 差別を受けた経験、暴力の被害者であった経験 — は、言語化することが極めて困難です。ポリティカル・コレクトネスが「正しい言葉」を提供することで、かえってその経験の複雑さと痛みが矮小化される可能性があります。

フーコーの言説分析 — 言葉は権力である

フーコーの言説理論は、言葉と権力の関係をより構造的なレベルで分析します。ある時代のある社会において、何が「語りうるもの」であり、何が「語りえないもの」であるかは、権力関係によって決定されている。言説は権力の道具であると同時に、権力そのものの表現でもあります。

この視点からすれば、ポリティカル・コレクトネスは言説の権力構造を組み替える試みとして理解できます。従来「正常」とされてきた言葉遣いが、実は特定の集団を排除する権力の作用であったことを暴き、新しい言葉遣いを通じて権力関係を変革しようとする。

しかし、新たな権力が生まれるリスク

フーコーの分析は同時に、ポリティカル・コレクトネスそれ自体が新たな権力として機能しうることを示唆します。「正しい言葉」を知っている者と知らない者のあいだに新たな権力の非対称性が生まれ、PC的な言葉遣いができることが文化的資本として機能する。デリダが脱構築で示したように、あらゆる概念的対立には権力関係が潜んでおり、ポリティカル・コレクトネスもその例外ではありません。

正しさの限界 — 何を守り、何を失うか

ポリティカル・コレクトネスの限界は、大きく三つに整理できます。

第一に、形式と実質の乖離です。差別的な言葉を変えても、差別の構造が変わらなければ、それは「上辺だけの平等」にとどまります。言葉を変えることで「問題は解決した」という錯覚を生み出すならば、それはむしろ真の変革を遅らせるかもしれません。

第二に、議論の萎縮です。「間違った言葉を使ったらどうしよう」という恐怖が、率直な対話を阻害する。特に、差別について学び理解を深めようとしている人々が、「不適切な発言」を恐れて沈黙してしまうとすれば、それはコミュニケーションの断絶を招きます。

第三に、権力の温存です。PC的な言葉遣いを巧みに使いこなす権力者が、実態としては何も変えないまま「配慮のある」イメージだけを獲得する。この「ウォッシング」は、批判的な思考によって常に見破られなければなりません。

おわりに — 言葉への責任

ポリティカル・コレクトネスは万能薬ではありませんが、完全に無意味でもありません。言葉が人を傷つけるという事実を認め、言葉遣いに配慮することは、他者への基本的な敬意の表現です。同時に、言葉の変更だけで社会が変わるという幻想に陥ることなく、構造的な不平等にも目を向ける必要があります。

求められるのは、PC賛成か反対かという二項対立を超えた、言葉に対する哲学的な感受性です。自分の言葉がどのような文脈でどのような効果を持つのかを反省的に考えること。相手の言葉の背後にある意図と文脈を理解しようとすること。それは容易なことではありませんが、多様な社会で共に生きるための不可欠な実践です。

関連項目