成果主義と人間の尊厳 — 能力主義社会の哲学的批判

はじめに — 「努力した者が報われる」の暗部

「努力すれば報われる」「実力次第で誰でも成功できる」 — 能力主義(メリトクラシー)の理念は、現代社会において最も広く共有された信念のひとつです。生まれや身分ではなく、個人の能力と努力によって社会的地位が決まる。これは封建制や世襲制に対する進歩であり、公正な社会の原理のように見えます。

しかし、哲学的に検討すると、能力主義には深刻な問題が潜んでいます。マイケル・サンデルが『実力も運のうち — 能力主義は正義か?』で指摘したように、能力主義は成功者に傲慢(hubris)を、そして失敗者に屈辱をもたらすのです。

能力主義の哲学的前提

能力主義は、少なくとも二つの哲学的前提に基づいています。

第一に、才能と努力は個人に帰属する。 成功は自分の能力と努力の結果であり、その成果は自分のものである。

第二に、成功は道徳的に正当化される。 能力と努力に基づく成功は「deserve(ふさわしい)」ものであり、成功者はその地位に値する。

この二つの前提は、一見すると合理的に思えます。しかし哲学的に見れば、いずれも重大な疑問にさらされています。

ロールズの批判 — 才能は「道徳的に恣意的」である

ロールズは『正義論』において、才能の分配は**「道徳的に恣意的(morally arbitrary)」**であると論じました。人がどのような才能を持って生まれるかは、遺伝的・環境的な偶然によって決まります。音楽の才能、数学的能力、運動神経 — これらは本人の選択の結果ではなく、自然の偶然の産物です。

努力についても同様のことが言えます。「努力できる性格」自体が、遺伝と養育環境の産物ではないか。粘り強さ、自制心、目標指向性 — これらの心理的特性も、本人の選択で獲得したものではなく、恵まれた環境の結果である可能性が高いのです。

ロールズの結論は明快です。才能も努力も本人の「功績」ではないのだから、その結果としての成功も無条件に「ふさわしい(deserved)」とは言えない。 成功者が自分の成功を純粋に自分の功績だと考えるのは、道徳的に不当です。

カントの人間の尊厳 — 市場価値を超えるもの

カントは、すべての人間が**尊厳(Würde)**を持つと主張しました。カントにおいて、尊厳は市場価格(Preis)とは根本的に異なるものです。

「価格を持つものは、何か他のもので代替できる。しかし、すべての価格を超え、したがっていかなる等価物も許さないもの — それが尊厳を持つ。」 — カント『人倫の形而上学の基礎づけ』

能力主義社会は、人間を市場価値 — 生産性、スキル、成果 — で評価する傾向があります。年収は能力の指標とされ、「使えない人材」は排除される。しかしカントの哲学に従えば、人間の価値は市場での有用性に還元できないのです。

倫理学の観点から言えば、能力や成果で人間を序列化することは、カントの定言命法 — 人間を手段としてのみ扱うな — に違反する可能性があります。能力主義は、生産性の高い人間をより価値あるものとして扱い、低い人間をより価値のないものとして扱う。これは、人間を「手段」として評価するシステムにほかなりません。

サンデルの能力主義批判 — 傲慢と屈辱

マイケル・サンデルの能力主義批判は、能力主義がもたらす道徳的・心理的帰結に焦点を当てます。

成功者の傲慢

能力主義が貫徹した社会では、成功者は自分の成功を完全に自分の功績だと信じます。「自分は努力したから成功した。成功できない人は努力が足りないのだ。」この信念は、成功者に傲慢をもたらし、不遇な人々への共感を失わせます。

失敗者の屈辱

同時に、能力主義のもとでの失敗は、純粋に個人の責任として経験されます。「自分が成功できないのは、自分の能力や努力が足りないからだ。」この自責は、失敗者に深い屈辱と自己否定をもたらします。

社会的な不平等が「不正」として経験される社会では、人々は制度を変えようとする動機を持ちます。しかし、不平等が「能力の差」として正当化される社会では、不遇な人々は制度ではなく自分自身を責めるのです。

ニーチェの視点 — 価値評価の転倒

ニーチェの系譜学的な分析は、能力主義の歴史的相対性を明らかにします。どのような能力が「価値ある」とされるかは、時代と社会によって異なります。中世では宗教的な敬虔さが、封建時代には武勇が、そして現代では経済的な生産性が、最も高く評価される「能力」です。

能力主義が称揚する「能力」 — 知識労働、データ分析、プログラミング — は、現在の経済システムが重視する能力にすぎません。なぜこれらの能力が、ケアの能力や手仕事の能力より高く評価されるのか、それ自体が問い直されるべきです。

承認の問題 — ホネットの議論

アクセル・ホネットの承認論は、能力主義と人間の尊厳の問題を理解するための枠組みを提供します。ホネットによれば、社会的な承認は三つの次元を持ちます。

  1. 愛の承認 — 親密な関係における肯定(自己信頼の基盤)
  2. 法的承認 — 権利主体としての承認(自己尊重の基盤)
  3. 社会的評価 — 能力や貢献に基づく承認(自己評価の基盤)

能力主義社会では、第三の次元(社会的評価)が支配的になり、第一・第二の次元を圧倒します。人間の価値が生産性や成果で測られるようになると、法的な平等(第二の次元)も愛情による無条件の肯定(第一の次元)も、市場価値の前に色あせてしまうのです。

尊厳に基づく社会へ — 共通善の回復

サンデルが提案するのは、能力主義を共通善の政治で置き換えることです。これは、アリストテレス的な伝統に連なる構想です。

アリストテレスにとって、正義とは単に公正な分配の問題ではなく、何が共同体にとって善いかを市民が共同で審議するプロセスです。労働の尊厳は、その市場価値ではなく、共同体への貢献によって測られるべきです。

エッセンシャルワーカー — 看護師、保育士、ゴミ収集員、食料品店の店員 — がコロナ禍で注目されたことは示唆的です。市場価値は低いが、社会的に不可欠な仕事。これらの仕事の尊厳を回復することは、能力主義の傲慢に対する一つの処方箋です。

おわりに — すべての人間は尊厳を持つ

能力主義は、封建制や世襲制に比べれば確かに進歩です。しかし、それが唯一の正義の原理として絶対化されるとき、深刻な問題を引き起こします。成功を純粋な個人の功績とし、失敗を純粋な個人の責任とする能力主義の論理は、人間の尊厳を市場価値に還元する暴力を孕んでいるのです。

カントが教えてくれるのは、人間の尊厳は能力や成果に依存しないということです。すべての人間は、何を為したかにかかわらず、何を生産するかにかかわらず、人間であるというただその理由で、尊厳を持ちます。この原理を忘れない社会こそが、真に公正な社会ではないでしょうか。

人格のなかの人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱ってはならない。 — カント


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