モラル疲労の時代 — 「正しくあること」に疲れた社会の哲学的診断

はじめに — 道徳的に「正しくある」ことの重さ

環境に配慮した消費を。差別的な言葉を使わないように。多様性を尊重して。弱者に寄り添って。情報の真偽を確認して。政治に関心を持って — 現代社会で「善い人」であるために要求されることは、際限なく増え続けています。

そして多くの人が、静かに疲弊しています。「もう、正しくあることに疲れた」。この感覚は、個人的な怠慢ではなく、現代社会に特有の構造的現象です。本コラムではこれを**「モラル疲労」**と名づけ、哲学の視点から診断を試みます。

カントの義務と「べき」の過剰

カントの道徳哲学は、道徳的行為を義務として基礎づけました。道徳法則に従うのは、それが快適だからでも、報われるからでもなく、義務だからです。この厳格な道徳観は、道徳を個人の気分や利益から独立させるという意味で偉大な達成でした。

しかし現代において、「べき(sollen)」の数は爆発的に増加しています。カントの時代、道徳的義務は比較的限定された範囲 — 嘘をつかない、約束を守る、他者の人格を尊重する — に収まっていました。ところが現代では、私たちの行為が地球の裏側の人々や未来の世代にまで影響を及ぼしうることが認識されています。

グローバルな義務の重荷

気候変動の問題を考えてみましょう。私が車に乗ることが、太平洋の島嶼国の人々の生存を脅かしている。私が安い服を買うことが、途上国の労働搾取を支えている。あらゆる日常的な行為が道徳的判断の対象になる — この状況は、カントの義務論が想定していた道徳的世界とは質的に異なります。

ストア派の教え — 何が私のコントロール内にあるか

ストア派の哲学は、モラル疲労への一つの処方箋を提供します。エピクテトスは、物事を「自分のコントロール内にあるもの」と「コントロール外にあるもの」に分け、後者に心を煩わされないことを説きました。

この区別は、モラル疲労に苦しむ現代人にとって重要な示唆を含んでいます。世界のすべての不正を解決することは、一個人の能力を超えています。自分のコントロール外にある問題に対して道徳的責任を感じ続けることは、ストア派の基準からすれば、理性的な態度ではありません。

しかし、ストア派の教えをそのまま適用することには注意が必要です。「自分にはどうしようもない」という態度が、構造的不正への無関心を正当化する口実になる危険性があるからです。

ニーチェの「道徳の重力」 — 禁欲的理想の行方

ニーチェは、西洋の道徳的伝統が人間の生命力を抑圧してきたと批判しました。キリスト教道徳が推奨する自己犠牲、禁欲、罪責感は、人間の自然な衝動を否定し、生きることそのものに罪悪感を抱かせるものだと。

現代のモラル疲労は、ニーチェの診断の変奏と見ることができます。SNS時代の道徳は、常に「より正しくあること」を求めます。今日の基準は明日には不十分となり、道徳的に「十分に善い」状態には決して到達できません。ニーチェが「禁欲的理想」と呼んだもの — 自己否定を通じた道徳的純化への衝動 — は、現代の「ウォーク(woke)」文化のなかに形を変えて生き続けているのかもしれません。

「力への意志」と道徳的自律

ニーチェの提案は、外部から課される道徳ではなく、自分自身の価値を自ら創造することでした。これは道徳の放棄ではなく、道徳の自律的な引き受けです。他者の期待に応えるための道徳ではなく、自分自身の生を肯定するための道徳。モラル疲労からの回復は、このような道徳観の転換を必要としているのかもしれません。

ケアの倫理 — 有限な存在としてのケア

キャロル・ギリガンやネル・ノディングスが提唱したケアの倫理は、モラル疲労の問題に別の角度から光を当てます。ケアの倫理は、道徳を抽象的な原理の適用ではなく、具体的な関係のなかでの応答として捉えます。

ケアの倫理は同時に、ケアする者の有限性を認めます。無限にケアし続けることは不可能であり、ケアする者自身もケアを必要としています。バーンアウト(燃え尽き症候群)は、ケアの倫理が真剣に取り組むべき問題なのです。

この視点からすれば、モラル疲労は道徳的欠陥ではなく、人間の有限性の表れです。すべての人にケアを提供し、すべての不正に対応し、すべての問題に責任を感じることは、有限な存在には不可能です。

情報過多と道徳的感受性の麻痺

現代のモラル疲労を増幅させているのは、情報テクノロジーです。かつて、人々が知り得る「世界の不幸」は限られていました。しかしスマートフォンとSNSは、地球上のあらゆる悲劇を私たちの目の前に突きつけます。

心理学者が「共感疲労(compassion fatigue)」と呼ぶ現象は、この状況と関係しています。共感する対象が多すぎるとき、共感そのものが機能不全に陥るのです。毎日のように流れてくる戦争、飢餓、災害、差別のニュースに、人間の共感能力は追いつかない。

認識論の観点から言えば、私たちは「知る能力」を超えた量の道徳的情報にさらされています。ヒュームが論じたように、道徳的判断において感情(道徳感情)が果たす役割は大きいのですが、その感情が疲弊したとき、道徳的判断そのものが困難になります。

「十分に善い」という可能性

完璧を求める道徳観から、**「十分に善い(good enough)」**道徳への転換は、モラル疲労に対する一つの応答です。精神分析家ウィニコットが「十分に善い母親」の概念を提唱したように、道徳においても「完全な善人」ではなく「十分に善い人」を目指すことは、持続可能な道徳的実践のために必要かもしれません。

アリストテレス徳倫理学も、この方向性を支持します。徳は一挙に達成されるものではなく、習慣的な実践を通じて徐々に形成されるものです。道徳的な完全性を即座に要求するのではなく、長期的な品性の形成を目指す — この態度は、モラル疲労に対するアリストテレス的な処方箋と言えるでしょう。

おわりに — 疲れることを許す倫理

モラル疲労は、現代社会が直面する深刻な倫理的課題です。しかしそれは同時に、私たちが道徳的な存在であることの証でもあります。道徳にまったく関心のない人は、モラル疲労を経験しません。

哲学が提供できるのは、モラル疲労を否定するのでも正当化するのでもなく、それを理解し、持続可能な道徳的実践のあり方を構想するための知的枠組みです。「正しくあること」に疲れたとき、その疲れを認め、休み、そして再び歩き始める。現代の倫理学が探究すべきは、そのような疲れることを許す倫理ではないでしょうか。

完全でなくてよい。ただ、諦めなければよい。 — ストア派の精神

関連項目