成長し続けなければならないのか — 「成長」を問い直す哲学
はじめに — 「成長」という至上命題
「成長しなければならない」——この命令は、個人にも企業にも国家にも等しく課せられています。自己啓発の世界では「成長マインドセット」が推奨され、企業は四半期ごとに成長を求められ、GDP成長率は国家の最重要指標とされる。
しかし、ここで問いを立ててみましょう。成長は本当に無条件に善いことなのか。どこまでも成長し続けることは可能なのか。そして、「成長しない」ことは本当に悪いことなのか。
アリストテレスのテロス — 成長には目的がある
アリストテレスの目的論は、成長を考える上で重要な視座を提供します。アリストテレスによれば、あらゆる自然物はそのテロス(目的・完成形態)に向かって発展します。どんぐりは樫の木になることを目指し、子犬は成犬になることを目指す。
ここで注目すべきは、アリストテレスの成長概念には**「完成」という概念が含まれている**ことです。どんぐりは樫の木になれば成長が完了する。無限に成長し続けるわけではない。成長にはテロスがあり、テロスに到達したとき、成長は安息に変わります。
エネルゲイアとキーネーシス
アリストテレスは「エネルゲイア(完全現実態での活動)」と「キーネーシス(目的に向かう運動)」を区別しました。散歩のように、そのこと自体がすでに目的を含んでいる活動と、建築のように、完成に向かって進む運動です。
現代社会の「成長」は、終わりのないキーネーシス——永遠に完成に到達しない運動——に似ています。しかしアリストテレスの哲学が示唆するのは、人間にとって最も高い状態は、成長の途上にあることではなく、テロスを実現した活動(エネルゲイア)のうちにあるということです。
ヘーゲルの弁証法 — 発展と統合
ヘーゲルの弁証法は、発展を「正—反—合」の運動として捉えました。精神は矛盾と対立を通じて自己を展開し、より高い段階へと上昇していく。ヘーゲルの歴史哲学は、人類の歴史全体を精神の自己実現のプロセスとして理解します。
しかしヘーゲルの弁証法にも、「絶対知」という到達点——発展が完成する地点——があります。無限に発展し続けるのではなく、矛盾が解消された状態がありうる。ヘーゲルの体系が正しいかどうかはともかく、発展には到達点があるという発想は、無限の成長を要求する現代の常識に対する重要な異議申し立てです。
ミルの定常状態 — 成長の終わりを構想する
19世紀の経済学者・哲学者J.S.ミルは、経済成長が永遠に続くべきだとは考えませんでした。むしろミルは、「定常状態(stationary state)」——経済成長が停止した状態——を積極的に評価しました。
ミルは言います。富の増大が停止した状態は、人間的改善の停止を意味しない。物質的成長の追求から解放されたとき、人々は知的・道徳的・芸術的な向上に集中できるようになる。物質的定常のなかでの精神的成長——これがミルの構想です。
脱成長の思想
ミルの定常状態論は、現代の「脱成長(degrowth)」の思想の先駆と見なせます。GDP成長率に代わる社会の進歩の指標を模索する試み——幸福度指標、ブータンの国民総幸福量(GNH)など——は、ミル的な問題意識の現代版です。
ニーチェの自己超克 — 成長の変奏
ニーチェの「自己超克(Selbstuberwindung)」は、一見すると「成長」の哲学に見えます。確かにニーチェは、現状への安住を軽蔑し、絶えず自己を乗り越えていくことを説きました。
しかしニーチェの自己超克は、社会的な「成功」の基準に従って右肩上がりに成長していくこととは異なります。それは、既存の価値観を破壊し、新たな価値を創造する行為です。場合によっては、社会的には「退歩」に見えることが、ニーチェ的には最高の自己超克かもしれません。
永劫回帰と反成長
ニーチェの永劫回帰の思想は、直線的な「進歩」や「成長」の観念に対する挑戦です。同じことが永遠に繰り返される世界では、「前に進む」という概念自体が意味を失います。永劫回帰のもとでは、重要なのは成長ではなく肯定——いまここの瞬間を全面的に引き受けること——です。
ストア哲学とエピクロス — 足るを知る
ストア派の知足
ストア哲学は、「自分の力の及ばないもの」への執着を手放すことを教えます。社会的成功、富、名声——これらは自分のコントロール外にある「好ましいが無関心なもの(preferred indifferent)」にすぎない。成長の追求が「自分の力の及ばないもの」への執着に基づいているとすれば、ストア派はそれを手放すことを勧めるでしょう。
エピクロスの自然的欲望
エピクロスは、欲望を「自然的で必要なもの」「自然的だが必要でないもの」「自然的でも必要でもないもの」に分類しました。際限のない成長への欲望は、第三の範疇——自然的でも必要でもない欲望——に属する可能性が高い。エピクロスの教えは、「十分(enough)」を知ることの価値を示しています。
ショーペンハウアーの意志と諦念
ショーペンハウアーは、あらゆる人間の行為の背後に「盲目的な意志(Wille)」を見ました。意志は永遠に満たされることがなく、欲望の達成は一時的な満足の後に新たな欲望を生む。成長の追求もまた、この盲目的意志の表れかもしれません。
ショーペンハウアーの処方箋は、意志からの解脱——芸術的観照や禁欲的な生による意志の否定——です。成長への強迫を手放すことは、ショーペンハウアー的にはひとつの解放です。
「成長しない」ことの積極的意味
成熟という概念
「成長(growth)」と「成熟(maturity)」は異なる概念です。成長は量的な増大を含意しますが、成熟は質的な深化を意味します。人間の発達において、ある段階から「成長」は止まりますが、「成熟」は続く。
哲学的対話、芸術の鑑賞、人間関係の深化——これらは「成長」として測定しにくいものですが、徳倫理学の観点からは人間的な卓越性の核心に位置しています。
立ち止まる勇気
成長を強いる社会のなかで、立ち止まることは勇気を必要とします。しかし、立ち止まることで初めて見えるものがある。ハイデガーのいう「ゲラッセンハイト(放下・手放すこと)」——対象を支配しようとする態度を手放し、物事をあるがままに受け入れること——は、成長強迫からの解放の鍵かもしれません。
おわりに
「成長し続けなければならない」という信念は、近代社会の根幹にある前提です。しかし哲学は、この前提が自明ではないことを教えてくれます。
アリストテレスのテロス、ミルの定常状態、ストア派の知足、ニーチェの永劫回帰——これらの思想は、直線的で無限の成長とは異なる人間のあり方を示唆しています。成長を全否定するのではなく、何のための成長か、どこまでの成長か、成長の外にある価値は何かを問うこと。それが、成長社会のなかで哲学が果たしうる役割です。
足るを知る者は富む。——老子