「やりたいことがない」問題 — 欲望の哲学と現代の空虚

はじめに — 「やりたいこと」の呪い

就職活動の面接で「将来やりたいことは何ですか」と問われ、言葉に詰まる。「夢は何?」と聞かれて、何も浮かばない。SNSで情熱的にプロジェクトに取り組む人々を見て、焦りと空虚を感じる——「やりたいことがない」という感覚は、現代社会において広く共有された苦悩です。

しかし不思議なのは、この苦悩が「当然ある筈のものがない」という前提に基づいている点です。「やりたいこと」がすべての人にあるべきだという想定は、本当に自明でしょうか。哲学は、この問題を意外な角度から照らし出してくれます。

「やりたいこと」の歴史性

近代以前の世界

近代以前の社会では、「やりたいこと」は人生の指針として期待されていませんでした。中世ヨーロッパでは、人は生まれた身分に応じた役割を果たすことが求められ、職業は家業を継ぐか、ギルドに入るかでほぼ決まっていました。「何がしたいか」ではなく「何をすべきか」が人生を規定していたのです。

中世の哲学においても、人間の目的は神によって定められていると考えられていました。人間の目的を「自分で見つける」必要はなかった——それは神によって啓示されるものでした。

近代の転換

「やりたいことを自分で見つけなければならない」という要求は、近代の産物です。宗教的権威の弱体化、封建制の崩壊、市場経済の発展——これらの変化によって、個人は自分の人生の目的を自ら設定することを求められるようになりました。ニーチェが「神は死んだ」と宣言したとき、人間は宇宙的な意味の体系を失い、自分自身で意味を創造する責務を負ったのです。

キルケゴールの美的実存 — 退屈という病

キルケゴールが描いた「美的実存」の段階は、「やりたいことがない」問題の哲学的先取りです。美的実存者は快楽と刺激を追い求めますが、あらゆる体験はやがて退屈に変わる。新しい体験を求めれば求めるほど、満足は遠ざかる。

キルケゴールの美的実存者は、あらゆることに関心を持ち、しかし何にも深くコミットしません。これは現代の「何をやっても長続きしない」「やりたいことが見つからない」という感覚と共鳴しています。

コミットメントの哲学

キルケゴールにとって、美的段階を超えるには「倫理的飛躍」——不確実性のなかで何かにコミットする決断——が必要です。重要なのは、コミットする対象が「正しい」かどうかではなく、コミットする行為そのものが自己を形成するということです。

「やりたいことが見つかってから行動する」のではなく、「行動のなかでやりたいことが見えてくる」——キルケゴールの思想はこの逆転を示唆しています。

ヘーゲルの欲望論 — 欲望は他者を必要とする

ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、自己意識の成立に「欲望(Begierde)」が本質的な役割を果たすことを示しました。しかしヘーゲルにおける欲望は、単に何かを「欲しい」と感じることではありません。

ヘーゲルの欲望は、究極的には他者の承認への欲望です。私たちが「やりたいこと」として語るものの多くは、実は他者からの承認を媒介としています。音楽をやりたいのは演奏が好きだからか、それとも認められたいからか。この区別は、「やりたいこと」の内実を問い直す重要な視点です。

欲望の模倣

ルネ・ジラールの「模倣的欲望(desir mimetique)」の理論によれば、人間の欲望は本質的に模倣的——つまり、他者が欲しがるものを欲しがるのです。「やりたいこと」が見つからないという苦悩には、模倣すべきモデルが不在であるか、あるいはモデルが多すぎて混乱しているという側面があるかもしれません。

ハイデガーの不安と可能性

ハイデガーの分析では、「不安(Angst)」は特定の対象を持たない——世界全体が意味を失ったように感じられる根源的な気分です。この不安のなかで、日常的な関心や目的はその切迫性を失います。

「やりたいことがない」という感覚は、ハイデガー的な不安の日常的な現れかもしれません。日常的な関心の体系が揺らぎ、何一つとして自分を駆り立てるものがない——この空虚さは、恐ろしいものですが、同時に可能性への開かれでもあります。

退屈の深層

ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』のなかで、退屈の三つの形態を分析しています。最も深い退屈——「深い退屈」——において、すべてのものが等しくどうでもよくなる。しかしこの「どうでもよさ」のなかで、かえって存在の問いが浮かび上がる。「やりたいことがない」という空白は、より根本的な問い——「そもそも何のために生きるのか」——への入り口かもしれません。

アリストテレスのエウダイモニア — 「やりたいこと」ではなく「善い生」

アリストテレスは、人間の最高善を「エウダイモニア(幸福・善い生)」と定義しました。しかしエウダイモニアは、「やりたいこと」の達成とは異なります。それは理性的な魂の活動としての卓越性(アレテー)の発揮です。

アリストテレスの視点からすれば、「やりたいことが見つからない」という苦悩は、問いの立て方自体に問題があるかもしれません。重要なのは「何がしたいか」ではなく**「何が善いか」**——どのような生き方が人間として善い生であるか——という問いなのです。

目的論的世界観の喪失

近代以降、アリストテレス的な目的論的世界観は衰退しました。自然も人間も、あらかじめ定められた「目的」を持っていないという世界観が支配的になった。その結果、目的を自分で見つけることが個人の課題となったのです。「やりたいことがない」問題は、形而上学的な目的の喪失の帰結とも言えるでしょう。

現代社会の構造的問題

情熱のイデオロギー

「好きを仕事にしよう」「情熱に従おう」——こうした言説は、労働を搾取する側にとって都合の良いイデオロギーでもあります。情熱を持って働く人は、低賃金や長時間労働も受け入れやすい。「やりたいこと」の要求は、資本主義的な労働倫理と結託している側面があるのです。

選択肢の過剰

「やりたいことがない」ことの一因は、選択肢の過剰にもあるかもしれません。あらゆる可能性が開かれているように見えるからこそ、一つを選ぶことが困難になる。サルトルが分析した「自由のめまい」は、ここでも作用しています。

おわりに — 「やりたいことがない」ことの肯定

「やりたいことがない」ことは、必ずしも欠陥ではありません。それは、既存の選択肢に安易に飛びつかない慎重さの表れかもしれないし、表面的な欲望に惑わされない誠実さの現れかもしれない。

哲学が教えてくれるのは、「やりたいこと」を焦って見つける必要はないということ、そして「やりたいこと」よりも深い問い——どのように生きるべきか、何が本当に善いか——があるということです。空虚さのなかに留まる勇気、問いのなかに居続ける忍耐——それ自体が、ひとつの哲学的態度なのです。

問うことは思考の敬虔さである。——ハイデガー

関連項目