オンライン人格と自己分裂 — デジタル時代のアイデンティティ危機
はじめに — あなたは何人いますか
Twitterでは辛辣な論客。Instagramでは華やかなライフスタイルの発信者。LinkedInでは真面目なビジネスパーソン。LINEのグループでは気さくな友人。そして、スマートフォンを置いたときの自分。
現代人は、プラットフォームごとに異なる「自分」を使い分けています。それぞれの場に合わせてトーンを変え、見せる側面を選び、ペルソナを切り替える。この現象は、単なる社交術なのか、それとも深刻な自己分裂なのか。
「本当の自分」はどこにいるのか。そもそも「本当の自分」は存在するのか。この問いは、哲学の歴史を貫く根本問題です。
デカルトの「考える私」— 統一された自我の起源
デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」によって、近代哲学の出発点を打ち立てました。すべてを疑っても、疑っている「私」の存在だけは疑えない。この確実な基盤の上に、デカルトは知識の体系を再構築しようとしました。
デカルト的な自我は統一的で不変の実体です。身体は変化しても、精神としての「私」は同一であり続ける。この心身二元論は、西洋近代の自我観の基盤となりました。
SNS上の複数のペルソナは、デカルト的な視点からすれば、統一された自我の異なる表出にすぎません。TwitterのあなたもInstagramのあなたも、同じ「考える私」の異なる側面です。自己は分裂していない — ただ異なる場面で異なる側面を見せているだけだ、と。
しかし、統一された自我はどこにあるか
この見方は安心感を与えますが、問題も抱えています。すべてのペルソナの「背後」にいるはずの統一された自我を、私たちは直接に経験できるでしょうか。デカルトの「考える私」は、純粋な思考の主体であり、具体的な内容を持ちません。しかし私たちが日常で感じる「自分らしさ」は、常に具体的な文脈 — 友人との会話、仕事の場面、SNSの投稿 — のなかで現れます。
ペルソナを剥がした後に残る「純粋な自我」は、実際に存在するのか。この問いは、合理主義の伝統を揺るがすものです。
ヒュームの自我批判 — 「自己」は束にすぎない
デカルトの自我観に根本的な疑問を投げかけたのが、デイヴィッド・ヒュームです。ヒュームは『人間本性論』(1739年)において、自己を探そうとしてもつねに見つかるのは個々の知覚だけであり、知覚の「背後」にある不変の自我は見つからないと主張しました。
私が最も深く自分自身のなかに入り込むとき、私がつねに出会うのは何らかの個別の知覚である。知覚なしに自分自身を捉えることは決してできない。
ヒュームによれば、自己とは知覚の**「束(bundle)」**にすぎません。統一された自我という観念は、連続する知覚の流れに私たちが事後的に与える幻想です。
この「束の理論」は、SNS上の自己分裂を興味深い形で照らし出します。もし自己がもともと知覚の束であるならば、自己分裂は病理ではなく、自己の本来のあり方なのかもしれません。複数のペルソナを持つことは異常ではなく、「統一された自我」という前提のほうが幻想である可能性があります。
ロックの人格同一性 — 記憶による自己
ジョン・ロックは、人格の同一性の基盤を記憶に求めました。私が昨日の私と「同じ人間」であるのは、昨日の経験を記憶しているからです。
この記憶説をSNSに適用すると、興味深い問題が生じます。私たちのSNS上の投稿は一種の外部化された記憶です。数年前の投稿を読み返したとき、「自分がこんなことを書いたのか」と驚くことがある。過去のオンライン上の自分は、現在の自分にとって半ば他人のようです。
さらに、プラットフォームが異なれば記憶の文脈も異なります。Twitterの自分の記憶とInstagramの自分の記憶は、同じタイムラインに統合されません。ロック的な意味での人格同一性は、プラットフォームごとに断片化しているのです。
サルトルの実存主義 — 自己は創られるもの
サルトルの実存主義は、自己分裂の問題に対してラディカルな回答を提供します。「実存は本質に先立つ」— 人間にはあらかじめ定められた本質(「本当の自分」)は存在しません。人間は自らの選択と行為を通じて、自分が何者であるかを創り上げていくのです。
この視点からすれば、「本当の自分はどのペルソナか」という問い自体が誤っています。どのペルソナも「本当の自分」であり、同時にどのペルソナも「本当の自分」ではない。自己は固定されたものではなく、絶えず自己を超越し、自己を作り直すプロセスそのものです。
自己欺瞞の問題
しかしサルトルは、あらゆる自己表現を肯定しているわけではありません。彼が厳しく批判したのは自己欺瞞(mauvaise foi)— 自分の自由から逃避し、固定された役割に安住する態度です。
SNS上の自己表現が自己欺瞞に陥るのは、ペルソナを演じることそのものではなく、そのペルソナが「本当の自分」だと思い込むこと、あるいは社会的に期待される役割に自分を合わせることを「選択」ではなく「運命」と捉えることです。
現代の自己論 — ナラティブ・アイデンティティ
現代の心の哲学では、自己を**「物語(ナラティブ)」として捉える議論が有力です。哲学者ポール・リクールは、自己同一性を語りのなかで構成されるもの**として論じました。
私たちは自分の人生を物語として語ることで、断片的な経験を統合し、自己を構築します。「私はこういう人間である」という自己理解は、過去の出来事を選択的に組み合わせ、そこに筋道を与えることで成立しています。
SNS上の複数のペルソナは、異なる物語の異なる登場人物と見ることができます。問題は複数のペルソナを持つことではなく、それらの物語が互いに矛盾し、統合できなくなるときに生じます。Twitterで主張していることとInstagramで見せている生活が根本的に矛盾するとき、自己の物語は崩壊の危機に瀕します。
おわりに — 分裂か、多面性か
オンライン上の複数の人格は、必ずしも病理的な「自己分裂」ではありません。人間はもともと多面的な存在であり、状況に応じて異なる側面を見せることは自然なことです。
しかし、その多面性が自覚的に管理されているか、それとも無自覚に翻弄されているかには大きな違いがあります。サルトルが求めたように、自分がどのペルソナを、なぜ、どのように演じているかを自覚すること。それが、デジタル時代における自己分裂と多面性を分かつ哲学的な分水嶺です。
「本当の自分」は、どこかに隠れている固定された実体ではありません。それは、複数のペルソナの間を行き来しながら、自覚的に自己を創り上げていくプロセスそのもののなかにあるのです。
人間は自分をつくるところのもの以外の何ものでもない。 — サルトル