コミュニティの再定義 — 地縁・血縁を超えた「共にいること」の哲学

はじめに — コミュニティの喪失と渇望

地域の自治会は高齢化で活動が停滞し、商店街はシャッターを下ろし、隣人の顔も知らないマンション暮らしが当たり前になっている。かつての地縁・血縁に基づくコミュニティは衰退の一途をたどっています。しかしその一方で、人々は「居場所」を求めてオンラインコミュニティに集い、コワーキングスペースが増殖し、「まちづくり」への関心が高まっています。

コミュニティは失われたのか、それとも形を変えて存在しているのか。そしてそもそも、「コミュニティ」とは何を指すのか。この問いに対して、現代哲学は伝統的なコミュニティ概念を根本から問い直す思考を展開しています。

テンニエスの古典的二分法 — ゲマインシャフトとゲゼルシャフト

ドイツの社会学者フェルディナント・テンニエスは、人間の結合の形態を「ゲマインシャフト(共同体)」と「ゲゼルシャフト(社会・利益社会)」に区別しました。ゲマインシャフトは血縁、地縁、精神的紐帯に基づく有機的な結合であり、ゲゼルシャフトは契約と利害計算に基づく機械的な結合です。

近代化とは、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行の歴史であるとテンニエスは論じました。しかしこの図式には、ゲマインシャフトを理想化し、近代化を一方的に「喪失」の物語として語る傾向があります。伝統的なコミュニティが温かい一体感を提供していた一方で、それが排除と抑圧を伴っていたことも忘れてはなりません。

ノスタルジアの罠

「昔は良かった」式のコミュニティ回顧は、政治哲学的に問題を含んでいます。伝統的なコミュニティの「一体感」は、しばしば同質性の強制と表裏一体でした。性別役割の固定、少数者の排除、個人の自由の抑圧。コミュニティの再建を語る際に、これらの負の側面を忘却したノスタルジアに陥ることは危険です。

ジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」

フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーは、伝統的なコミュニティ概念を根本から問い直しました。ナンシーによれば、「共同体の喪失」は近代の出来事ではなく、共同体は**最初から「失われている」**のです。有機的な一体感をもった原初的な共同体は、実際には一度も存在したことがない。

ナンシーが提唱する「無為の共同体(communaute desoeuvree)」は、共通の本質やアイデンティティに基づかない共同体です。それは「作品(oeuvre)」として完成されるものではなく、つねに未完成のまま、**共にいること(etre-en-commun)**そのものとして存在する。

「共にいること」の存在論

ナンシーの中心概念は「共にいること(etre-en-commun)」です。人間の存在は本質的に「共にある」存在であり、孤立した個人が後から集まって共同体を作るのではない。ハイデガーが「共存在(Mitsein)」として論じたように、他者との関係は人間存在の構造そのものに組み込まれています。

この視点からすれば、コミュニティの「再建」とは、失われたものを取り戻すことではなく、すでにそこにある「共にいること」を新たな仕方で実現することです。地縁や血縁がなくても、人間は本質的に「共にある」存在であり、その「共にあること」を意識的に形にすることがコミュニティの再定義なのです。

アガンベンの「来たるべき共同体」

イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは『来たるべき共同体』(1990年)において、アイデンティティや所属に基づかない共同体の可能性を模索しました。アガンベンが構想する共同体は、「何であるか」ではなく「かくある」という単独性によって結ばれた共同体です。

従来のコミュニティは、メンバーの共通属性 — 同じ民族、同じ宗教、同じ地域 — を基盤としていました。しかしアガンベンの「来たるべき共同体」は、そのような共通の属性を前提としません。一人ひとりがかけがえのない「単独者」として、その単独性のままに共にある — それがアガンベンの構想する共同体です。

1989年天安門とコミュニティ

アガンベンは、1989年の天安門広場に集まった人々を「来たるべき共同体」の一例として言及しています。彼らは特定のイデオロギーや要求をもって集まったのではなく(少なくともアガンベンの解釈では)、ただ「共にそこにいること」自体が政治的な行為であった。アーレントが重視した「公的空間への出現」が、ここでは最も純粋な形で実現されたとアガンベンは見るのです。

バトラーの「脆弱性の連帯」

ジュディス・バトラーは、近年の著作で**脆弱性(vulnerability)**を連帯の基盤として提唱しています。人間はすべて傷つきやすい存在であり、この共通の脆弱性を認め合うことが、新しい形の連帯を可能にする。

バトラーのコミュニティ概念は、強さや自律性ではなく弱さの共有を出発点としています。「私たちは傷つきやすい」という共通の条件を認めること、そしてその傷つきやすさを相互にケアし合うこと。この倫理は、現代の倫理学における「ケア」の概念と深く結びついています。

路上のアセンブリ

バトラーはまた、デモや集会といった**身体的な集まり(assembly)**をコミュニティの原型として重視しています。路上に集まること、身体を曝すこと、共に声を上げること — これらの行為は、既存の制度やSNSのアルゴリズムに媒介されない、直接的な「共にいること」の実践です。

オンラインコミュニティの可能性と限界

デジタル技術は、地理的制約を超えたコミュニティの形成を可能にしました。同じ関心、同じ経験、同じ悩みを持つ人々が、世界中からオンラインで集まる。これは、地縁・血縁に基づかないコミュニティの新たな形態として、一定の意義を持っています。

しかし、SNSと実存主義で論じたように、オンラインコミュニティにはいくつかの構造的な限界があります。アルゴリズムが類似した意見の人々を集めるエコーチェンバー効果、匿名性がもたらす無責任、身体的な共在の欠如。ナンシーやバトラーが重視する「共にいること」の身体的な次元は、オンラインでは完全には実現できません。

日本社会における「新しいコミュニティ」

日本では近年、さまざまな「新しいコミュニティ」の試みが生まれています。シェアハウス、コワーキングスペース、地域食堂、まちライブラリー。これらは、血縁でも利害でもなく、緩やかな関心と意志に基づくコミュニティです。

これらの実験を社会契約論の視点で見れば、参加者たちは暗黙のうちに新しい「契約」を結んでいるとも言えます。「完全な一体感」を求めず、「必要なときに助け合う」という緩やかな約束。この「ゆるいコミュニティ」は、伝統的な共同体の排他性と、純粋な個人主義の孤立の両方を避ける、第三の道かもしれません。

おわりに — 完成しないコミュニティ

コミュニティの再定義は、完成された答えではなく、問い続けるプロセスとして捉えるべきです。ナンシーが示したように、コミュニティは「作品」として完成されるものではない。完成されたコミュニティは、排除と同質化を不可避的に伴うからです。

求められるのは、つねに開かれた、つねに変容し続ける「コミュニティ」のあり方です。新しいメンバーを歓迎し、異質な声に耳を傾け、固定化を避ける。それは不安定で居心地の悪いものかもしれません。しかし、その不安定さこそが、コミュニティが生きているしるしなのです。

地縁も血縁も失った現代において、「共にいること」の新しい形を発明し続けること。それは哲学的な課題であると同時に、きわめて実践的な課題でもあります。

関連項目