「自己責任」という思想 — その哲学的起源と現代の陥穽
はじめに — 「自己責任」が口癖の社会
「それは自己責任でしょ」——この言葉は、現代日本社会においてほとんど自明の道徳原則のように語られています。就職に失敗したのも、病気になったのも、貧困に陥ったのも「自己責任」。海外で危険な目にあったのも「自己責任」。この言葉は、個人の不幸を社会から切り離し、すべてを当人の選択の結果として処理する便利な装置として機能しています。
しかし、「自己責任」という概念は、それほど自明なものでしょうか。哲学は「自由」と「責任」の関係を長い時間をかけて考えてきましたが、そこで得られた知見は、現代の自己責任論の単純さを浮き彫りにします。
自由と責任の哲学的基盤
サルトルの「根源的自由」
サルトルは、人間は「自由の刑に処せられている」と宣言しました。私たちはこの世界に投げ込まれ、選択を免れることができない。選択しないことさえ、ひとつの選択です。そしてサルトルは、この根源的な自由に対応する全面的な責任を主張しました。
サルトルの責任概念は驚くほど広範です。戦争に巻き込まれた兵士でさえ、戦場にいることに対して責任がある——なぜなら逃亡や自殺という選択肢が残されている以上、戦い続けることは自らの選択だからです。
サルトルと自己責任論の違い
しかし、サルトルの責任論と現代の自己責任論を同一視することはできません。サルトルの責任は存在論的な責任——自由な存在であることに伴う根源的な責任——であり、社会的・道徳的な「責め」とは次元が異なります。
むしろサルトルは、マルクス主義に接近するなかで、社会構造が個人の自由を制約することを認めるようになりました。「自由は常に状況のなかの自由である」——この定式は、純粋な自己責任論を超えた視座を提供しています。
ロールズの正義論 — 運の不平等
ジョン・ロールズの『正義論』は、自己責任論に対する最も体系的な哲学的批判のひとつを提供しています。ロールズは「無知のヴェール」という思考実験を通じて、正義の原理を導き出しました。
ロールズが重視したのは、個人の人生の結果が**「道徳的に恣意的な」要因**——生まれた家庭の裕福さ、才能の有無、性別、人種など——によって大きく左右されるという事実です。これらは個人が選択したものではなく、したがって個人に責任を帰すことはできません。
格差原理と自己責任
ロールズの「格差原理」は、社会的・経済的不平等は最も不利な立場にある人々の利益になる場合にのみ正当化されると主張します。この原理は、「成功は自分の努力の成果であり、失敗は自分の怠慢の結果だ」という自己責任論の前提を根本から覆すものです。
才能に恵まれ、良い教育を受け、社会的ネットワークを持つ人間が成功するのは、その人の「自己責任」による功績と言えるでしょうか。ロールズはそうではないと考えました。
ホッブズと社会契約 — 個人と社会の関係
ホッブズの社会契約論は、個人が社会のなかで生きることの意味を根本から問い直します。自然状態において「万人の万人に対する闘争」が生じるのを避けるために、人々は主権者に権力を委譲する。社会は個人を守るための装置なのです。
社会契約論の視点からすれば、社会は個人に対して保護の義務を負っています。自己責任論は、この社会の責任を曖昧にし、契約の一方の当事者(社会・国家)を免責する機能を果たしうるのです。
ネオリベラリズムと自己責任
フーコーの統治性分析
フーコーは晩年の講義で「ネオリベラリズムの統治性」を分析しました。ネオリベラリズムは、人間を「人的資本」として捉え、各個人に自己の経営者であることを求めます。健康管理、スキルアップ、ネットワーク構築——すべてが自己投資として個人の責任に帰される。
フーコーの分析が明らかにしたのは、自己責任論が単なる道徳的主張ではなく、新自由主義的な統治テクノロジーであるということです。個人に責任を転嫁することで、国家は社会保障の縮小を正当化する。「自己責任」は、権力の行使を隠蔽するイデオロギーとして機能するのです。
企業家的自己
ネオリベラリズムの下では、失業者は「就労意欲の欠如」、貧困者は「自己管理の失敗」、病者は「健康管理の怠慢」として責任を問われます。社会構造的な問題——非正規雇用の拡大、長時間労働、格差の拡大——は、すべて個人の自己責任に解消されてしまうのです。
アーレントの責任論
ハンナ・アーレントは、個人の責任と集合的な責任を区別しつつ、両者の関係を考察しました。アーレントにとって重要だったのは、政治的責任——自分が属する政治共同体の行為に対する責任——です。
アーレントの視点からすれば、社会のなかで生じる不正義に対して「それは個人の自己責任だ」と切り捨てることは、政治的無責任にほかなりません。私たちが共有する政治的空間のなかで起こる出来事に対して、市民として責任を負うことを放棄しているからです。
「責任」の再考
応答可能性としての責任
英語の「responsibility」は「response(応答)」と「ability(能力)」に由来します。責任とは元来、他者の呼びかけに応答する能力——応答可能性——を意味していました。
この語源に立ち返れば、責任は個人に帰責する道具ではなく、他者の苦しみに応答する倫理的態度として捉え直すことができます。「それは自己責任だ」という言葉は、応答を拒否する——つまり責任を放棄する——行為なのかもしれません。
構造的不正義と責任
現代の政治哲学者アイリス・マリオン・ヤングは、構造的不正義に対する「社会的つながりモデル」を提唱しました。構造的不正義は特定の個人の悪意によるものではなく、多数の人々の行為が組み合わさって生じる。したがってその責任は、構造に参加するすべての人々が**前を向いて(forward-looking)**引き受けるべきものです。
おわりに
「自己責任」という言葉が安易に使われるとき、そこには複雑な哲学的問題が隠されています。自由と責任の関係、運と努力の境界、個人と社会の相互依存——これらの問題を無視して「自己責任」を振りかざすことは、知的にも倫理的にも誠実とは言えません。
哲学は、責任を否定するのではなく、責任の概念をより深く、より正確に理解することを求めています。「自己責任」のイデオロギーを超えて、私たちが互いに対して負っている責任——社会的連帯としての責任——を考え直すこと。それが、哲学が現代社会に提供しうる重要な視座のひとつです。
人間の条件は、誰もが他者に依存しているということである。——アーレント