SNSと実存主義 — デジタル時代の「本来的自己」を問う
はじめに — 「世人」としての私たち
マルティン・ハイデガーは『存在と時間』のなかで、日常的な人間のあり方を**「世人(das Man)」**と呼びました。世人とは、「みんながそうするから」「普通はこうだから」という匿名の他者に流される非本来的な存在様式です。
SNS時代の私たちは、まさにこの世人の極致にいるのではないでしょうか。トレンドに乗り、バズを追い、フォロワー数で自己を測る。ハイデガーが20世紀前半に見抜いた人間の傾向は、スマートフォンの普及によって加速度的に深化しています。
サルトルの「まなざし」とSNSの可視性
ジャン=ポール・サルトルは、他者のまなざし(le regard)が私たちの自由を脅かすと論じました。他者に見られることで、私たちは「対象(即自存在)」に固定されてしまう。
SNSは、このまなざしを24時間365日、全方位から浴びせる装置です。投稿するたびに、私たちは他者の評価にさらされます。「いいね」の数は、サルトルが恐れた他者による存在の固定化を数値として可視化したものにほかなりません。
サルトルは「実存は本質に先立つ」と宣言しました。人間は何者かに生まれつくのではなく、自ら選択することで何者かになる。しかしSNSのプロフィール欄は、私たちにあらかじめ「本質」を書き込むよう強いるのです。
キルケゴールの「あれか、これか」
セーレン・キルケゴールは、本来的な自己になるためには不安と向き合う決断が必要だと説きました。彼のいう「あれか、これか」は、二者択一の選択を通じて自己を形成していく過程です。
ところがSNSのアルゴリズムは、私たちから決断の契機を奪います。タイムラインは私たちの嗜好に最適化され、不快な情報や異なる意見はフィルタリングされる。キルケゴールが重視した実存的不安 — 自己を揺さぶり成長を促す不安 — に出会う機会が、構造的に減少しているのです。
「本来的自己」への道
では、デジタル時代において「本来的自己」を取り戻すことは可能でしょうか。ハイデガーのいう本来性(Eigentlichkeit)は、世人から完全に離脱することではなく、世人のなかにありながら自覚的に生きることです。
いくつかの手がかりを挙げてみましょう。
- デジタルデトックスではなく、デジタルリテラシー — SNSを断つことは一時的な逃避にすぎない。むしろ、アルゴリズムの構造を理解し、自覚的に利用する態度が求められる
- 不安を受け入れる — 「いいね」がつかない不安、トレンドに乗り遅れる焦り。これらの感情を抑圧するのではなく、自己を問い直す契機として引き受ける
- 対話の回復 — SNS上の「反応」ではなく、他者との真の対話を意識的に求める。サルトルがカフェで友人と交わした議論のように
おわりに
実存主義者たちは、近代社会が人間の本来性を脅かすことを警告しました。SNSはその脅威を新たな次元に押し上げています。しかし同時に、実存主義の思想は、この状況を乗り越えるための知的資源を私たちに提供しているのです。
スマートフォンを手にしたまま、「自分自身であること」は可能か。この問いに安易な答えはありません。しかし、問い続けること自体が、本来的自己への第一歩なのかもしれません。
人間は自由の刑に処せられている。 — サルトル