「生きづらさ」の構造 — 哲学が読み解く現代の苦しみ
はじめに — 名前のない苦しみ
「生きづらい」——この言葉が日本社会で広く使われるようになったのは、比較的最近のことです。身体的な病気でもなく、具体的な困窮でもない。しかし確かに感じる、漠然とした苦しみ。「生きづらさ」は名前を付けにくいからこそ、対処も難しい。
哲学は、この「名前のない苦しみ」を言語化し、その構造を明らかにする力を持っています。「生きづらさ」は個人の心の問題なのか、それとも社会構造の問題なのか。その両方であるとすれば、どのように絡み合っているのか。
ハイデガーの不安 — 根源的な生きづらさ
ハイデガーは、「不安(Angst)」を人間存在の根本的な気分として分析しました。不安は恐怖とは異なります。恐怖には特定の対象がありますが、不安の対象は**「世界内存在そのもの」**です。
不安のなかでは、日常的な意味の体系が崩壊します。仕事、人間関係、趣味——普段は私たちを支えているこれらのものが、突然その意味を失い、「そもそもなぜ」という問いが浮上する。ハイデガーにとって、この不安は否定的なものではなく、「本来的自己」への覚醒の契機です。
不安と「生きづらさ」
「生きづらさ」の一部は、ハイデガー的な不安の体験と重なります。具体的な問題がなくても感じる漠然とした不安、「これでいいのだろうか」という根源的な問い——これらは、人間が自分自身の存在に対して向き合わざるを得ない存在であることの帰結です。
しかし、ハイデガーの不安が「人間の存在論的条件」であるのに対し、現代の「生きづらさ」にはそれを増幅する社会的条件が伴っています。不安自体は普遍的でも、その強度は時代と社会によって異なるのです。
マルクスの疎外 — 構造的な生きづらさ
マルクスの疎外論は、「生きづらさ」の社会構造的な側面を明らかにします。
四重の疎外
マルクスが分析した四つの疎外——生産物からの疎外、労働過程からの疎外、類的存在からの疎外、他者からの疎外——は、現代社会においても、いやむしろ現代社会においてこそ、その力を発揮しています。
非正規雇用で不安定な生活を送ること(生産物からの疎外)、やりがいのない仕事に従事すること(労働過程からの疎外)、自分の能力を発揮できないこと(類的存在からの疎外)、人間関係が表面的で孤立感を感じること(他者からの疎外)——これらの疎外が複合的に作用して、「生きづらさ」の構造を形成しています。
疎外の個人化
マルクスの時代、疎外は階級問題として認識されていました。労働者は共通の利害を持ち、共に闘うことができた。しかし現代では、疎外が個人化されています。「あなたの生きづらさはあなたの問題だ」——この自己責任論が、構造的な問題を個人の心理に還元し、連帯の可能性を奪っているのです。
フーコーの規律権力 — 規範が生む息苦しさ
ミシェル・フーコーの権力分析は、「生きづらさ」が規範(ノルム)の内面化によって生じる側面を照らし出します。
正常と異常の境界
フーコーによれば、近代社会は「正常」と「異常」の境界線を引き、その境界を通じて人々を管理しています。精神医学、心理学、教育学——これらの「知」が「正常な」人間のあり方を定義し、そこから外れる者を「異常」として排除・矯正する。
「生きづらさ」の一部は、この**「正常」の圧力**から来ています。「普通」であることを求められ、「普通」でない自分を恥じる。コミュニケーション能力が求められ、内向的な自分を否定する。「空気を読む」ことが求められ、率直であることが許されない。
主体化と服従化
フーコーのフランス語「assujettissement」は、「主体化」と「服従化」の二重の意味を持ちます。私たちが「主体」になる過程は、同時に社会的規範に「服従」する過程でもある。「生きづらさ」は、この主体化/服従化のプロセスで生じる亀裂——自分のあり方と社会的規範のズレ——の感覚かもしれません。
アーレントの公共性 — 居場所のなさ
ハンナ・アーレントの思想は、「生きづらさ」を**「居場所のなさ」**として捉え直す視点を提供します。
公共的空間の衰退
アーレントにとって、人間が「人間として」生きるためには、政治的な公共空間——言葉と行為によって自分が何者であるかを示し、他者からそれを承認される場——が必要です。しかし現代社会では、この公共空間が衰退しています。
「世界疎外」としての生きづらさ
アーレントは「世界疎外(world alienation)」という概念を用いました。これは、人間が共有する「共通世界」——共に語り、共に見る世界——を失うことです。SNS上のエコーチェンバー、政治的分極化、コミュニティの崩壊——これらによって共通世界が解体されるとき、人間は自分の経験を他者と共有できない孤立に陥る。
「生きづらさ」の核心のひとつは、この「世界疎外」——自分の苦しみを語り、共感される場を持たないこと——にあるのではないでしょうか。
キルケゴールの絶望 — 自己との不一致
キルケゴールは、『死に至る病』で「絶望」を分析しました。絶望とは、自己が自己と一致しない状態——自分であることがうまくいかない状態——です。
キルケゴールの分析では、絶望には三つの形態があります。
- 絶望していることを知らない絶望 — 最も深刻な形態。自分が苦しんでいることにすら気づいていない
- 自分自身であることを望まない絶望 — 別の自分になりたい、今の自分から逃げたい
- 自分自身であろうとする絶望 — 自力で自分を基礎づけようとする傲慢
「生きづらさ」を訴える人の多くは、第二の形態——「こんな自分ではなく、別の自分でありたい」という絶望——を経験しているかもしれません。
サルトルの「嘔吐」— 存在の過剰
サルトルの小説『嘔吐』の主人公ロカンタンは、存在の「偶然性」と「過剰」に吐き気を催します。すべてのものがただ存在している、何の理由もなく、ただそこにある——この存在の剥き出しの事実が、耐えがたい「嘔吐」を引き起こす。
「生きづらさ」のなかには、この存在の偶然性——なぜ自分がここにいるのか、なぜこのように生きているのかに理由がない——を感じる瞬間が含まれているかもしれません。
「生きづらさ」を超えるために
個人的次元と構造的次元
「生きづらさ」への対処には、個人的な次元と構造的な次元の両方が必要です。
個人的次元では、実存主義が示すように、不安と向き合い、自分自身の存在を引き受ける勇気が求められます。しかしそれだけでは不十分です。構造的な次元では、疎外を生み出す社会構造の変革、公共空間の再建、承認の制度的保障が必要です。
語りの場の回復
「生きづらさ」に対する最も根本的な処方箋のひとつは、語りの場を取り戻すことかもしれません。自分の経験を言葉にし、他者と共有し、共感を得ること。アーレントが重視した「物語を語る(storytelling)」行為は、孤立した個人を共通世界のなかに再び位置づけます。
哲学対話の可能性
哲学は、「生きづらさ」に即座の解決策を与えるものではありません。しかし、漠然とした苦しみに言葉を与え、その構造を明らかにし、自分一人の問題ではないことを示す力を持っています。ソクラテス以来、哲学は対話のなかで問いを深める営みでした。「生きづらさ」について語り合うこと——それ自体が、生きづらさを超えるための第一歩なのです。
おわりに
「生きづらさ」は、個人の弱さの証ではありません。それは、存在の不安(ハイデガー)、社会的疎外(マルクス)、規範の圧力(フーコー)、公共空間の喪失(アーレント)、自己との不一致(キルケゴール)——これらの哲学的次元が絡み合った、構造的な問題の個人的な体験です。
「生きづらさ」を個人の心理に還元せず、その構造を直視すること。そして、語りの場を通じて孤立を超えること。哲学は、この営みのための言葉と枠組みを提供してくれるのです。生きづらさのなかで立ち止まり、「なぜ」を問うこと——それは弱さではなく、人間としての力です。
哲学とは、故郷を見失った者の郷愁である。——ノヴァーリス