「幸せになりたい」が苦しい理由 — 欲望と幸福のパラドクス
はじめに — 幸せの追求が不幸を生む
「幸せになりたい」。この願いは、人間にとって最も自然で普遍的なものに思えます。しかし、この願い自体が苦しみの原因になっていることはないでしょうか。
「幸せになりたい」と願うとき、私たちは現在の自分は幸せではないと宣言しています。幸福の追求は、現在の不幸の自覚を前提としている。そして、幸福を強く求めれば求めるほど、現在の状態とのギャップが意識され、苦しみが増大する。
このパラドクスは、日常的な直感としても感じられるものですが、哲学の歴史のなかで深く考察されてきた問題でもあります。
ショーペンハウアーの意志と苦悩
ショーペンハウアーは、このパラドクスを最も徹底的に分析した哲学者です。『意志と表象としての世界』(1818年)において、彼は人間存在の根底に**「意志(Wille)」** — 盲目的で際限のない欲求の力 — を見出しました。
ショーペンハウアーの洞察は鮮烈です。欲望が満たされれば退屈が、満たされなければ苦痛が生じる。人間は苦痛と退屈の間を振り子のように揺れ動く。
人生は苦痛と退屈との間を振り子のように往復する。
「幸せになりたい」という欲望もまた、意志の一つの表れです。この欲望が満たされない間は苦痛を感じ、仮に満たされたとしても、そこにとどまることはできない。新たな欲望が生まれ、再び苦痛が始まる。幸福の追求は、終わりなきシーシュポスの労働のようなものです。
意志の否定は可能か
ショーペンハウアーが提案した解決策は、意志の否定 — 欲望を根本的に放棄すること — でした。禁欲的な生活、芸術の鑑賞(一時的な意志からの解放)、そして究極的には聖者のような無欲の境地。
しかし、「意志を否定しよう」という決意もまた一つの意志であるという自己矛盾を、ショーペンハウアー自身も完全には解決できていません。幸福を求めないことで幸福になろうとする — このパラドクスは、意志の否定によっても逃れられないのです。
エピクロスの「欲望の分類」— 求めるべきものを見極める
古代ギリシアのエピクロス主義は、ショーペンハウアーとは異なるアプローチでこのパラドクスに取り組みました。エピクロスは欲望を否定するのではなく、欲望を分類し、適切に管理することを提案しました。
エピクロスの三分類を再確認しましょう。
- 自然的で必要な欲望 — 飢渇を満たす食事、安全な住居など。これらは容易に満たされる
- 自然的だが必要でない欲望 — 美食や快適な暮らし。満たしても害はないが、必須ではない
- 自然的でも必要でもない欲望 — 名声、富、権力。際限がなく、満たされない
「幸せになりたい」という漠然とした願望は、しばしば第三の欲望に結びついています。「もっと成功すれば」「もっと美しければ」「もっと認められれば」幸せになれる、と。しかしこれらの欲望には終わりがなく、追い求めるほど幸福は遠ざかります。
エピクロスの処方箋は明確です。第一の欲望を確実に満たし、第二の欲望を適度に楽しみ、第三の欲望を手放す。幸福の鍵は、何を求めるかではなく、何を求めないかにある。
ストア派の「プロハイレシス」— 選択の自由
ストア派は、幸福の追求における苦しみの原因を判断の誤りに求めました。エピクテトスが繰り返し説いたのは、「自分の力の及ぶこと」と「及ばないこと」の区別です。
「幸せになりたい」が苦しいのは、多くの場合、幸福の条件を自分の力の及ばないことに置いているからです。健康、財産、他者の評価、社会的地位 — これらはすべて自分の完全なコントロール下にはありません。コントロールできないものに幸福を依存させれば、必然的に不安と苦しみが生じます。
ストア派の提案は、幸福の条件をプロハイレシス(意志的選択) — 自分の判断と態度 — に限定することです。外的な状況がどうであれ、それに対する自分の態度を正しく保つこと。それが唯一確実な幸福の基盤だ、とストア派は主張します。
パスカルの気晴らし — 幸福を追い求めないことの困難
パスカルは、人間が幸福を直接的に追い求めることの困難さを鋭く分析しました。
人は幸福になるためにあらゆることをする。幸福を求めて戦争すら行う。しかし幸福を直接手に入れようとしたことはない。
パスカルの観察によれば、人間は幸福そのものを直接追い求めることができません。代わりに、幸福をもたらすと信じる活動 — 仕事、娯楽、恋愛、冒険 — に没頭します。しかしこれらの活動が終わると、また空虚さが戻ってくる。
パスカルにとって、この空虚さは人間の有限性と罪深さの表れです。世俗的な活動では決して埋められない穴が、人間の心にはある。パスカルはその穴を神への信仰で埋めようとしましたが、宗教的な解決を受け入れない人にとっても、パスカルの診断は重要です。
「気晴らし」から「直面」へ
パスカルの「気晴らし(divertissement)」論から引き出せる洞察は、幸福を追い求めること自体が気晴らしになっている可能性です。「幸せになりたい」という願望に没頭することで、実は別の問い — 自分は何者か、何のために生きているか — から目を逸らしている。
もしそうであれば、幸福への道は、幸福を直接追い求めることではなく、それらの根本的な問いに直面することのなかにあるのかもしれません。
ニーチェの「幸福批判」
ニーチェは、幸福の追求を人間の卑小化と結びつけて批判しました。
人間は幸福を追求する — だが、イギリス人だけがそうする。
この辛辣な一撃は、功利主義的な幸福追求への批判です。ニーチェにとって、人間の目標は幸福ではなく力 — 自己超克と創造の力 — です。困難、苦しみ、挫折を避けるのではなく、それらを引き受け、乗り越えることで人間は成長する。
ニーチェの「運命愛(amor fati)」— 自分の運命を、苦しみをも含めて肯定すること — は、「幸せになりたい」という願望を根本的に変容させます。苦しみのない状態を求めるのではなく、苦しみをも含めた生の全体を肯定すること。それがニーチェの提案する「幸福」のあり方です。
おわりに — 幸福は副産物として
「幸せになりたい」が苦しいのは、幸福を目的として追い求めるからです。哲学が教えるのは、幸福は直接追い求めるものではなく、善く生きることの副産物として訪れるものだということです。
アリストテレスの徳の実践、エピクロスの欲望の管理、ストア派の判断の修正、ニーチェの運命の肯定 — いずれの伝統も、幸福を直接的な目標にはしていません。それぞれが提案するのは、生き方そのものの変容です。
「幸せになりたい」と願うことをやめること。それは諦めではなく、幸福への最も確実な道なのかもしれません。目の前のことに誠実に取り組み、自分の判断を磨き、苦しみをも含めた生を引き受けること。その先に、名づけようのない充実感が — それを「幸福」と呼ぶかどうかはさておき — 静かに訪れるのです。
幸福を追い求めないことが、幸福への最短の道である。 — エピクテトス(意訳)