正義は誰のものか — ロールズ・サンデル・ニーチェから問い直す「公正さ」の起源

はじめに — 「正義」を疑うことの意味

「正義」という言葉ほど、人を熱くさせるものはありません。SNS上の論争でも、政治的な議論でも、人々は自分こそが正義の側にいると確信しています。しかし、そもそも正義とは何であり、誰がそれを定義する権利を持つのでしょうか

古代ギリシアの哲学者たちは、この問いに真正面から取り組みました。プラトンは『国家』において正義を「魂の調和」として描き、アリストテレスは「各人にその人にふさわしいものを与えること」と定義しました。しかし2500年が経った現在、正義の定義は一つに収束するどころか、むしろ拡散し続けています。

本コラムでは、正義を「誰のもの」かという視点から捉え直し、現代社会における正義の奪い合いの構造を哲学的に解き明かしていきます。

ロールズの「無知のヴェール」 — 公正としての正義

20世紀の政治哲学に最も大きな影響を与えた思想家の一人、ジョン・ロールズは、正義を**公正さ(fairness)**と結びつけました。彼が提唱した「原初状態」と「無知のヴェール」という思考実験は、正義の普遍性を基礎づけようとする壮大な試みでした。

無知のヴェールの背後では、人は自分の性別、人種、社会的地位、才能を知りません。その状態で合意されるルールこそが、真に公正な社会の原理になる — これがロールズの発想です。彼はこの思考実験から、二つの正義の原理を導き出しました。

  1. 平等な自由の原理 — すべての人に平等な基本的自由が保障されること
  2. 格差原理 — 社会的・経済的不平等は、最も恵まれない人々の利益になる場合にのみ正当化されること

ロールズの理論は、正義を特定の文化や伝統から切り離し、理性的な合意に基づけようとした点で画期的でした。しかしこのアプローチには、強力な批判者が現れます。

サンデルの反論 — 「負荷なき自我」への疑問

マイケル・サンデルをはじめとするコミュニタリアン(共同体主義者)は、ロールズの前提を根底から疑いました。無知のヴェールの背後にある「負荷なき自我」 — つまり、あらゆる社会的属性を剥ぎ取られた抽象的な個人 — は、本当に存在するのかと。

サンデルの主張は明快です。人間は常に特定の共同体、文化、伝統のなかに埋め込まれた存在である。正義の観念もまた、そうした具体的な文脈を離れては成立しない。アリストテレスが『政治学』で人間を「ポリス的動物」と呼んだように、私たちは共同体から切り離された抽象的個人としてではなく、特定の物語のなかを生きる存在として正義を理解するのです。

この立場からすれば、正義は普遍的な理性ではなく、共同体の共有された善の観念から導かれるものになります。ロールズの正義が「手続き的」であるのに対し、サンデルの正義は「実質的」です。

ニーチェの急進的問い — 正義は「弱者の怨恨」か

ニーチェは、正義概念そのものの系譜を暴こうとしました。『道徳の系譜学』において彼は、西洋の道徳的概念は「善い」「正しい」ものの自然な発展ではなく、権力闘争の産物であると主張します。

ニーチェの分析によれば、「正義」の起源には**ルサンチマン(怨恨)**があります。自ら力を持たない者たちが、強者の力を「悪」と名づけることで道徳的優位を得ようとする。「正義を求める」とは、実は「自分の弱さを道徳的に正当化する」ことではないのか — この挑発的な問いは、現代のSNS上の「正義の暴走」を考えるうえで、不穏なほどの示唆力を持っています。

もちろんニーチェの議論をそのまま受け入れる必要はありません。しかし、「正義を語る動機」そのものを問い返す彼の視座は、安易に正義を振りかざすことへの重要な警告となっています。

アリストテレスの配分的正義 — 功績と必要性のあいだ

アリストテレスの倫理学における正義論は、現代の議論にも直接つながる論点を含んでいます。彼は正義を「配分的正義」と「矯正的正義」に分け、配分的正義においては「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように」扱うべきだと説きました。

しかし問題は、何をもって「等しい」と見なすかです。功績に応じて分配すべきなのか、必要に応じてなのか、あるいは平等に分配すべきなのか。この問いは、現代の福祉政策、税制、教育制度をめぐる議論の根幹にあります。

現代社会における配分の争い

現代の「正義の闘い」の多くは、この配分の基準をめぐるものです。たとえば、累進課税を支持する人は「必要に応じた配分」を重視し、フラットタックスを主張する人は「功績に応じた配分」を重視しています。どちらも自らの立場を「正義」と呼びますが、その正義の根拠は異なっているのです。

社会契約論の遺産 — 合意に基づく正義

社会契約の伝統は、正義を人々の合意から導き出そうとしました。ホッブズは万人の万人に対する闘争を避けるための契約を、ルソーは一般意志に基づく社会契約を構想しました。

しかし、社会契約論には根本的な問題があります。歴史上、実際にそのような契約が結ばれたことはないのです。先住民、奴隷、女性、子ども — 多くの人々は、契約の当事者として認められてすらいませんでした。正義の基盤とされる「合意」そのものが、特定の人々を排除する仕組みの上に成り立っていたのです。

現代の正義闘争 — 誰の正義が優先されるか

現代社会では、複数の正義が同時に主張され、しばしば衝突します。

  • リベラルの正義 — 個人の権利と自由を最優先する
  • コミュニタリアンの正義 — 共同体の伝統と共有された善を重視する
  • フェミニストの正義 — ジェンダーに基づく構造的不平等の是正を求める
  • グローバルな正義 — 国境を超えた公正さを追求する

これらの正義は、抽象的には共存可能に見えますが、具体的な政策判断の場面ではしばしば対立します。たとえば、移民政策において「国民の利益を守る正義」と「難民の人権を守る正義」が衝突するとき、どちらの正義が優先されるべきでしょうか。

フーコー的視点 — 正義と権力の共犯関係

フーコーの権力論は、正義の議論にもう一つの次元を加えます。フーコーに従えば、「何が正義であるか」を定義する行為そのものが権力の行使です。正義の言説は、特定の知の体制と不可分に結びついており、正義を語ることは、同時に誰かを「不正義」の側に位置づけることでもあるのです。

おわりに — 正義を「所有」しない勇気

正義は誰のものでもありません。あるいは、正義は全員のものです。しかし、それは正義が空虚な概念であるということではなく、正義は常に問い直され、更新され続けるべきものであるということです。

プラトンが始めた正義への問いかけは、ロールズ、サンデル、ニーチェを経て、現代の私たちに届いています。重要なのは、「私の正義」を振りかざすことではなく、「あなたの正義」を理解しようとすること — そして、正義の名のもとに行われる暴力に対して鋭敏であることではないでしょうか。

政治哲学が教えてくれるのは、正義の確実な答えではなく、正義を問い続けることの重要性なのです。

正義とは、強者の利益にほかならない。 — トラシュマコス(プラトン『国家』より)

関連項目