差別はなぜなくならないのか — 哲学が解く偏見の構造

はじめに — 繰り返される問い

人種差別、性差別、障害者差別、民族差別 — 人類の歴史は差別の歴史でもあります。法的には多くの差別が禁止され、教育は平等の理念を教え、社会運動は差別の撤廃を訴え続けてきました。それにもかかわらず、差別はなくならない。形を変え、場所を変え、ときに「善意」の衣をまとって、差別は再生産され続けます。

なぜでしょうか。この問いに対して、哲学は表層的な説明を超えた、より深い構造的な分析を提供してくれます。

アリストテレスの「自然」 — 差別を正当化する論理の原型

哲学が差別とどう関わってきたかを問うとき、まずアリストテレスの議論を避けて通ることはできません。アリストテレスは『政治学』において、奴隷制を「自然に基づくもの」として正当化しました。ある人々は生まれながらにして支配されるべき存在であり、それは彼らにとっても善いことだと。

現代の目から見れば、この議論は明らかに誤りです。しかし重要なのは、差別を**「自然」の名で正当化するパターン**が、アリストテレス以来、繰り返し使われてきたということです。女性は「自然に」家庭に適している。ある民族は「自然に」知的に劣っている。このパターンの危険性は、差別を道徳的選択の問題ではなく、変えようのない事実の問題に転換してしまうことにあります。

ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」 — 承認の闘争

ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識は他者の承認を通じてのみ成立することを示しました。有名な「主人と奴隷の弁証法」は、二つの自己意識が互いの承認を求めて闘争する場面を描きます。

勝者は「主人」となり、敗者は「奴隷」として主人に承認を与えます。しかしヘーゲルは、この関係が本質的に不安定であることを示します。主人は奴隷からの承認しか得られませんが、奴隷の承認は自由な主体からの承認ではないため、十全な承認にはなりません。

この分析は差別の構造を深く照らしています。差別する側は、差別される側を自分より劣った存在と見なすことで、自らの優越性を確認しようとします。しかし、劣った存在からの承認には価値がないため、差別者は永遠に満たされない承認を求め続けることになります。差別が終わらないのは、それが差別する側のアイデンティティの不安定性に根ざしているからなのです。

サルトルの「まなざし」 — 他者によって「つくられる」存在

サルトルは、実存主義の立場から差別の哲学的分析を行いました。サルトルにとって、人間は本質に先立つ実存であり、自らを自由に作り上げる存在です。しかし同時に、人間は他者の「まなざし」によって対象化されます。

サルトルの反ユダヤ主義の分析は、この構造を明らかにしています。「ユダヤ人」は、反ユダヤ主義者のまなざしによって「作られる」。偏見は、対象について何かを発見するのではなく、対象を特定の枠組みに閉じ込めるのです。

「悪意の信仰」と差別

サルトルの概念である**「悪意の信仰(mauvaise foi)」**は、差別を維持する心理的メカニズムを説明します。人は自分が自由であり、偏見を持つことも持たないことも選択できることを知っています。しかし、その自由を直視することは不安をもたらします。そこで人は、「自分の偏見は社会的に形成されたもので仕方がない」「事実を述べているだけだ」といった自己欺瞞によって、自由と責任から逃避するのです。

フーコーの権力/知 — 差別を支える知の構造

フーコーの「権力/知」の概念は、差別が単なる個人的偏見ではなく、知識や制度の構造のなかに埋め込まれていることを示します。

精神医学は「正常」と「異常」を区分し、犯罪学は「犯罪者タイプ」を同定し、人類学は「文明」と「未開」を分類しました。これらの「科学的」知識は、特定の人々を管理・排除する権力と不可分に結びついていました。差別は「無知の産物」ではなく、むしろ特定の「知」の産物なのです。

この分析は重要な示唆を与えます。差別をなくすために「正しい知識」を普及させればよいという素朴な啓蒙主義的発想は、知そのものが権力構造に埋め込まれている可能性を見落としています。

無意識の偏見 — 理性の限界

現代の社会心理学が明らかにした**暗黙の偏見(implicit bias)**の存在は、差別の哲学的分析に新たな次元を加えます。人は、意識的には平等主義を信じていても、無意識のレベルでは特定の集団に対する否定的な連想を持っていることがあります。

この発見は、認識論に対する重大な挑戦です。デカルト以来の近代哲学は、理性的な自己反省によって偏見を克服できると想定してきました。しかし、意識にすら上らない偏見を、理性的な反省だけで克服することは可能なのでしょうか。

構造的差別 — 個人の意図を超えて

現代の差別論において最も重要な概念の一つは、**構造的差別(structural discrimination)**です。これは、個々人が差別的な意図を持っていなくても、制度や慣行が特定の集団に不利な結果をもたらす現象を指します。

たとえば、「成績のよい学生を選抜する」という一見中立的な基準も、教育機会が不平等な社会では、恵まれた家庭の子どもを優遇する結果になります。この場合、誰も差別する意図は持っていませんが、システム全体として差別的な結果が生産されます。

構造的差別の概念は、差別を「悪い個人の問題」から「社会システムの問題」へと転換します。そしてこれが、差別がなくならない根本的な理由の一つです。個人の心を変えるだけでは、構造は変わらないのです。

徳倫理学的アプローチ — 品性の形成

差別の問題に対して、徳倫理学は独自のアプローチを提供します。差別的な行為をルールで禁止するだけでなく、差別しない品性(character)を形成することを目指すのです。

アリストテレスの徳倫理学では、徳は習慣的な実践によって身につけられます。正義の行為を繰り返すことで正義の人になるように、他者を尊重する実践を繰り返すことで、偏見に抗する品性が形成されます。

しかし、この徳の形成は個人の努力だけでは完結しません。人は社会のなかで品性を形成するのであり、差別的な社会で差別しない品性を育てることには、構造的な困難が伴います。

おわりに — 差別と向き合い続けること

差別がなくならないのは、それが人間の認知構造、社会制度、権力関係、アイデンティティの不安定性など、複数の層に根を張っているからです。単一の解決策 — 法律の制定、教育の改善、意識改革 — だけでは、この根深い問題に対処することはできません。

倫理学が教えてくれるのは、差別との闘いは完了するプロジェクトではなく、継続する実践であるということです。差別のない社会は到達点ではなく、つねに目指し続けるべき方向なのです。

他者の自由を否定する者は、自由に値しない。 — ヘーゲル

関連項目