現代人はなぜ疲れているのか — 疲労の哲学的診断

はじめに — 疲れている。でも何に?

「疲れた」——これは現代人の最も頻繁な嘆きのひとつです。しかし不思議なのは、肉体的に激しい労働をしている人よりも、デスクワーカーやフリーランサーのほうが「疲れている」と感じることが多い点です。肉体は酷使されていないのに、なぜこれほど疲れるのか。

この疲労は、単なる睡眠不足や栄養不良では説明できません。それはより深い——存在論的な次元の疲労です。哲学は、この不可解な疲れの構造を解明する手がかりを提供してくれます。

ビョンチョル・ハンの「疲労社会」

韓国出身の哲学者ビョンチョル・ハンは、著書『疲労社会(Mudegkeitsgesellschaft)』で、現代の疲労の構造を鮮明に描き出しました。

規律社会から成果社会へ

ハンによれば、20世紀後半以降、社会はフーコーが分析した**「規律社会」から「成果社会」へ**移行しました。規律社会は「してはならない」という否定性によって人々を統制する。一方、成果社会は「できる」「やるべきだ」という肯定性によって人々を駆動する。

成果社会の主体は、もはや「従順な主体」ではなく**「成果主体(Leistungssubjekt)」**です。成果主体は外部から強制されるのではなく、自ら進んで成果を追求する。「もっとできるはず」「まだ十分でない」——この自己駆動のメカニズムが、際限のない自己搾取を生み出すのです。

自己搾取の構造

ハンの分析の核心は、現代の疲労が他者による搾取ではなく自己搾取によって生じているという点にあります。マルクスの時代の労働者は資本家によって搾取されていた。しかし成果社会の主体は、自分自身の加害者であり被害者です。「もっと頑張らなければ」という声は、外部からではなく自分の内部から聞こえてくる。

だからこそ、この疲労からの脱出は困難です。搾取者が外にいれば抵抗できますが、搾取者が自分自身であるとき、抵抗する対象が存在しないのです。

マルクスの疎外論 — 労働と自己の乖離

マルクスは、資本主義のもとでの疎外を四つの側面から分析しました。

  1. 生産物からの疎外 — 自分が作ったものが自分のものにならない
  2. 労働過程からの疎外 — 労働が自己実現ではなく強制になる
  3. 類的存在からの疎外 — 人間の本質的な能力が発揮されない
  4. 他者からの疎外 — 人間関係が競争関係に変質する

現代の疲労は、これらの疎外の総合的な帰結として理解できます。自分の仕事が何のためにあるのか見えない、仕事にやりがいを感じられない、同僚は競争相手——こうした疎外の累積が、意味の枯渇としての疲労を生み出すのです。

アーレントの「労働する動物」

ハンナ・アーレントが批判した「労働する動物(animal laborans)」の勝利は、現代の疲労を理解するもうひとつの鍵です。

アーレントにとって、「労働」は生命の維持に関わる反復的で消耗的な活動です。食べること、清掃すること、生きるために必要な生産と消費の永遠のサイクル。人間が「労働する動物」に還元されるとき——つまり生産と消費のサイクルだけが人生のすべてになるとき——人間はシーシュポスの岩を転がし続けるような終わりなき疲労に陥ります。

活動の喪失と疲労

アーレントが「労働」や「仕事」と区別した「活動(action)」——他者のなかに現れ出て、新しいことを始める自由な営み——は、疲労に対する解毒剤となりうるものです。しかし現代社会では、この「活動」の場が縮小している。

すべてが「労働」——生産性の論理——に回収され、効率化と最適化の対象となる。友人との会話さえ「ネットワーキング」として計算される。活動の喪失が、生の意味の枯渇を、そして特有の疲労を生み出しているのです。

ハイデガーの存在忘却

ハイデガーの視点からすれば、現代の疲労は**存在忘却(Seinsvergessenheit)**の症状かもしれません。テクノロジーと効率性の追求に没頭するなかで、私たちは「存在の問い」——なぜそもそも何かがあるのか、存在するとはどういうことか——を忘れてしまった。

存在忘却のなかでの忙しさは、パスカルの「気晴らし」と同様、根源的な問いからの逃避です。しかし逃避し続けることには膨大なエネルギーが必要であり、その疲労がどこかで表面化する。「何に疲れているのか分からないが疲れている」という感覚は、存在忘却の身体的な現れかもしれません。

ニーチェのニヒリズムと疲労

ニーチェが診断したニヒリズム——最高の価値が無価値化すること——は、現代の疲労の深層に位置する問題です。「何のために」という問いに答えを持たないまま走り続けること、意味の空洞のなかで成果を追い求め続けること——これはニヒリズムの身体化としての疲労です。

受動的ニヒリズムとしての疲労

ニーチェは「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」を区別しました。受動的ニヒリズムは、価値の崩壊の前に倒れ込み、「何をしても無意味だ」という虚無感に沈む態度です。現代の疲労——「頑張っても意味がない」「何をしてもどうせ変わらない」——は、この受動的ニヒリズムの表現かもしれません。

疲労の再評価

根源的疲労の可能性

ハンは『疲労社会』の後半で、疲労を否定的なものとしてだけでなく、肯定的な可能性として捉え直します。孤独な自己搾取の疲労ではなく、共に何かを達成した後の「われわれの疲労」——この種の疲労は、人間の紐帯を生み出す。

現象学的な疲労分析

現象学的に見れば、疲労は世界との関わり方の変容です。通常、私たちは世界のなかの事物に向かって活動的に関わっています。しかし深い疲労のなかでは、この能動性が弱まり、世界が「ただそこにある」ものとして現れる。この受動性のなかに、ハイデガーのいう「ゲラッセンハイト(手放すこと)」への通路があるかもしれません。

疲労への処方箋

哲学が提案する疲労への処方箋は、「もっと効率的に休め」ではありません。

  1. 自己搾取の構造を自覚すること — 「もっとやれるはず」という声が自分の内部から来ているのか、社会的要請の内面化なのかを見極める
  2. 「活動」の場を取り戻すこと — 生産性と無関係な、他者との自由な交わりの時間を守る
  3. 存在の問いに立ち止まること — 「何のために」という問いを避けずに、直面する
  4. 「十分である」ことを認めることストア哲学の知恵に倣い、際限のない「もっと」の要求から距離を取る

おわりに

現代人の疲労は、睡眠や休養だけでは解消されない深さを持っています。それは、成果主義の自己搾取、労働からの疎外、活動の喪失、存在忘却、ニヒリズム——これらが複合的に作用した文明の病です。

「もっと頑張れ」も「もっと休め」も、問題の本質を外れています。必要なのは、なぜ疲れているのかを根本から問い直すこと——つまり、哲学的に思考することです。パラドキシカルに聞こえるかもしれませんが、立ち止まって考えることが、疲労を超えるための第一歩なのです。

真に思考する者のみが、真に休息できる。——アーレント

関連項目