心の哲学 - 心身問題と意識の本質をめぐる探究
概要
心の哲学(Philosophy of Mind)は、心・意識・精神的なものの本質と、それらが物理的世界・身体・脳といかなる関係にあるかを探究する哲学の一分野である。心身問題(mind-body problem)――心と身体はいかなる関係にあるのか――は、デカルト以来、西洋哲学の最も根本的な問題の一つであり続けている。20世紀後半以降、認知科学・神経科学・人工知能研究の発展に伴い、心の哲学は分析哲学において最も活発な研究領域の一つとなった。
心の哲学が取り組む主要な問題群には、心身問題のほか、意識の本質、志向性(心的状態が何かについてのものであるという性質)、クオリア(主観的な経験の質)、自由意志、他者の心の問題、人工知能と心の関係などが含まれる。
心身二元論
心身問題に関する最も影響力のある歴史的立場は、デカルトの実体二元論である。デカルトは、思惟する実体(res cogitans、心)と延長する実体(res extensa、身体)を根本的に異なる二つの実体として区別した。心は非物理的・非空間的であり、身体は物理的・空間的である。しかし、心と身体が相互に因果的に作用する(例えば、痛みの感覚が身体の損傷から生じ、意志が身体の運動を引き起こす)ことは日常的に明らかであり、根本的に異なる二つの実体がいかにして因果的に相互作用しうるのかという「相互作用問題」が二元論の最大の困難として提起された。
20世紀に入り、ギルバート・ライルは『心の概念』(1949年)において、デカルト的二元論を「機械の中の幽霊(the ghost in the machine)」と呼んで批判し、心的述語の文法的分析を通じて、心身二元論が「カテゴリー錯誤」に基づく哲学的神話であることを論じた。
同一説と還元主義
1950年代から1960年代にかけて、心脳同一説(identity theory)が提唱された。プレイスとスマートは、心的状態は脳の物理的状態と同一であると主張した。痛みは特定のニューロンの発火パターンと文字通り同一であるとする「タイプ同一説」は、心的なものを物理的なものに還元する最も直截的な形態の物理主義であった。
しかしタイプ同一説に対しては、パトナムの「多重実現可能性(multiple realizability)」の議論が有力な批判となった。痛みという心的状態は、人間では特定のニューロン状態として実現されるが、タコや仮想的な異星人では全く異なる物理的状態として実現されうる。同一の心的状態が多様な物理的基盤の上に実現可能であるならば、心的状態を特定の物理的状態と同一視することはできない。
機能主義
パトナムの多重実現可能性の議論を受けて登場したのが機能主義(functionalism)である。機能主義によれば、心的状態はその物理的な構成素材によってではなく、その機能的役割――入力(感覚刺激)と出力(行動)の間の因果的関係と、他の心的状態との関係――によって定義される。痛みとは、身体損傷によって引き起こされ、不快の感情を伴い、回避行動を産出する、という機能的役割を果たすいかなる内的状態でもある。
機能主義の重要な帰結は、心的状態の実現基盤が物質的組成に依存しないという点である。適切な機能的組織を持つ任意のシステム――生物学的な脳であれ、シリコンチップのコンピュータであれ――が心的状態を持ちうることになる。この考えは人工知能研究と深い親和性を持ち、「強い人工知能」の哲学的基盤を提供した。
しかし機能主義にも重要な批判が向けられた。サールの「中国語の部屋」の思考実験は、プログラムに従って中国語の入出力を処理する英語話者が中国語を「理解」していないことを示すことにより、機能的組織だけでは意識や理解の説明には不十分であると論じた。
意識のハードプロブレム
デイヴィッド・チャーマーズは、1995年の論文および著書『意識する心』(1996年)において、「意識のハードプロブレム(the hard problem of consciousness)」を定式化した。チャーマーズは、意識に関する問題を「イージープロブレム」と「ハードプロブレム」に区別した。
イージープロブレムは、認知的機能の説明に関わるものである。情報処理、行動制御、注意、覚醒など、意識に付随する機能的側面は、原理的には神経科学的・計算論的な方法で説明可能である。これに対してハードプロブレムは、「なぜ物理的な処理過程に主観的な経験(現象的意識)が伴うのか」という問いである。赤を見る経験に伴う「赤さの感じ」(クオリア)、痛みの「痛さの感じ」が、なぜ神経活動から生じるのかを物理主義的に説明することは、原理的に困難であるとチャーマーズは主張した。
チャーマーズは、ハードプロブレムが物理主義の枠組み内では解決不可能であると論じ、意識を物理的性質に還元されない基本的な性質として認める「自然主義的二元論(naturalistic dualism)」を提唱した。
クオリアをめぐる論争
クオリア(qualia)――主観的な経験の質的な側面(赤の赤さ、痛みの痛さ、チョコレートの味わい)――は、心の哲学における最も論争的な概念の一つである。フランク・ジャクソンの「メアリーの部屋」の思考実験は、白黒の部屋で色彩に関する全ての物理的知識を習得した科学者メアリーが、初めて赤を見たとき新しい何かを知ることを示すことにより、物理的知識が現象的経験の知識を汲み尽くさないことを論じた。
トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか」(1974年)は、コウモリの反響定位の経験には、人間がいかに多くの客観的知識を持っていても接近できない主観的な「どのようなもの(what it is like)」の側面があることを論じ、意識の主観性が客観的な自然科学の方法では捉えきれない可能性を提起した。
一方、デネットはクオリアの概念そのものを批判し、「クオリアを退ける」(1988年)において、クオリアは哲学的な虚構であると論じた。意識の問題は、神経科学と認知科学の発展によって解消されるべき「イージープロブレム」の集合に帰着するとデネットは主張する。
心の哲学の現代的展開
現代の心の哲学では、認識論・形而上学・科学哲学と密接に交差しながら、多様な立場が展開されている。汎心論(panpsychism)は、意識が物質の根本的な性質であるとする立場として近年再び注目を集めている。拡張された心(extended mind)のテーゼは、心的過程が脳の内部にとどまらず環境にまで拡張されうると主張する。予測処理の枠組みは、脳が世界の内部モデルを構築し予測を生成するシステムであるとする。人工知能の急速な発展は、意識と知能の関係について新たな哲学的問いを投げかけ続けている。