ホッブズ - リヴァイアサンと社会契約の政治哲学者
生涯
トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年 - 1679年)は、イングランド南部ウィルトシャーのマームズベリに生まれた哲学者である。スペイン無敵艦隊がイングランドに迫る恐怖のなかで母が早産したことから、ホッブズは後に「私と恐怖は双子として生まれた」と述べている。14歳でオックスフォード大学マグダレン・ホールに入学し、スコラ哲学を学んだが、その教育には深い不満を覚えた。
大学卒業後、キャヴェンディッシュ家(後のデヴォンシャー公爵家)の家庭教師兼秘書として生涯にわたり同家に仕えた。三度にわたるヨーロッパ大陸旅行でガリレイ、ガッサンディ、メルセンヌらと交流し、特にユークリッド幾何学との出会いとガリレイの力学に強い感銘を受け、幾何学的方法と機械論的世界観に基づく哲学体系の構築を志した。
1640年代のイングランド内戦を避けてパリに亡命し(1640年 - 1651年)、この期間に主著『リヴァイアサン』を執筆した。『リヴァイアサン』の出版(1651年)後はイングランドに帰国し、共和政のクロムウェル体制下で生活した。王政復古後はチャールズ2世に迎えられたが、無神論の嫌疑から議会で著作の出版を禁じられた。91歳の長寿を全うし、1679年にダービシャーのハードウィック・ホールで没した。
唯物論と機械論的世界観
ホッブズの哲学体系の基盤は徹底した唯物論(materialism)と機械論(mechanism)にある。ホッブズにとって、存在するのは物体(body)のみであり、非物質的な実体としての精神や魂は存在しない。宇宙は運動する物体の総体であり、すべての現象は物体の運動によって機械論的に説明される。
この唯物論はデカルトの心身二元論と鋭く対立する。デカルトが精神を物質から独立した実体と見なしたのに対し、ホッブズは思考を含むすべての精神活動を物質的運動に還元した。感覚は外部の物体が感覚器官に与える運動の連鎖として、想像力は感覚運動の残響として、思考は言語記号の計算操作として説明される。「推論するとは計算することである(Ratiocinatio est computatio)」というホッブズのテーゼは、思考を機械的操作として理解する近代の計算主義的認知観の先駆である。
自然状態と万人の万人に対する闘争
ホッブズの政治哲学の出発点は「自然状態(state of nature)」の概念である。自然状態とは、政治的権力が存在しない仮定的状況であり、すべての人間が自然的に平等であるがゆえに、各人は自己保存のために他者と競合する。希少な資源をめぐる競争、他者に対する不信、名誉への欲求という三つの原因により、自然状態は「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes)」の状態となる。
この自然状態においては、「人間の生活は孤独で、貧しく、汚く、残忍で、短い(solitary, poor, nasty, brutish, and short)」。産業も農耕も航海も学問も存在し得ず、「最悪のもの、すなわち暴力的な死への恒常的な恐怖と危険」が支配する。ホッブズの自然状態の描写は、ロックやルソーの比較的穏当な自然状態像と対照的であり、人間本性に対する悲観的な人間観を反映している。
社会契約とリヴァイアサン
自然状態の悲惨から逃れるために、人間は理性の命令(自然法)に導かれて社会契約を結ぶ。ホッブズの社会契約の独自性は、契約が臣民同士の間で結ばれ、主権者はその契約の当事者ではないという点にある。各人は「この人またはこの合議体に、私の自己統治の権利を授与し、かつ譲渡する。ただし、あなたもまた同様にあなたの権利をこの人またはこの合議体に譲渡するという条件において」という契約を相互に結ぶ。
こうして誕生する絶対的主権者がリヴァイアサンである。リヴァイアサンとは旧約聖書のヨブ記に登場する巨大な海の怪物であり、ホッブズはこの比喩によって、多数の人間の意志が結集して一つの人格となった国家の圧倒的な権力を表現した。主権者は臣民の契約によって生まれるが、契約の当事者ではないため、いかなる契約上の義務にも拘束されない。主権は不可分であり、立法・行政・司法・課税・戦争と平和の決定などすべての権限が主権者に集中する。
自然権と自然法
ホッブズは自然権(jus naturale)と自然法(lex naturalis)を明確に区別した。自然権とは、各人が自己の生命を保存するためにあらゆる手段を用いる自由であり、自然状態においてすべての人間に帰属する。自然法とは、理性によって発見される一般的規則であり、人間に自己の生命を破壊するような行為を禁じる。
ホッブズは約20の自然法を列挙したが、最も根本的なのは第一の自然法「平和を求めよ」と第二の自然法「平和のために自然権を相互に放棄せよ」である。第三の自然法は「結ばれた契約を履行せよ」であり、これが正義の基盤となる。しかし自然法はそれ自体では拘束力を持たず、その履行を強制する共通権力(主権者)が存在して初めて実効性を持つ。ここに社会契約と主権者の必要性が論証される。
宗教と国家
ホッブズは『リヴァイアサン』の後半二部(第三部「キリスト教のコモンウェルスについて」、第四部「暗黒の王国について」)において、宗教と国家の関係を詳細に論じた。ホッブズは聖書解釈の権威を主権者に帰属させ、教会を国家の管轄下に置くことを主張した。教皇や聖職者が世俗的権力に対して独立の権威を主張することは、国家の統一を脅かす「暗黒の王国」であるとして厳しく批判した。
この国家による宗教統制の主張は、カトリック教会からもプロテスタント各派からも非難を浴びた。ホッブズの議論には唯物論的前提(霊魂の非物質性の否定など)が含まれており、「モンスター・オブ・マームズベリ(マームズベリの怪物)」と呼ばれて無神論者として攻撃された。
主要著作
- 『リヴァイアサン』(1651年) — 政治哲学の主著。自然状態、社会契約、主権論を体系的に展開する。
- 『市民論(De Cive)』(1642年) — 『リヴァイアサン』に先立つ政治哲学の著作。
- 『物体論(De Corpore)』(1655年) — 物体の運動を基礎とする自然哲学の体系。
- 『人間論(De Homine)』(1658年) — 人間の本性と認識を論じた人間学的著作。
- 『ベヒモス』(1681年、遺稿) — イングランド内戦の歴史と原因の分析。
後世への影響
ホッブズは近代政治哲学の創始者の一人として、倫理学・政治学・法学に甚大な影響を与えた。ロックとルソーはホッブズの社会契約論を批判的に継承し、それぞれ自由主義と民主主義の理論を構築した。ホッブズの唯物論は、ラ・メトリやドルバックのフランス唯物論に先駆するものであり、現代の物理主義的心の哲学にも通じる。国際関係論におけるリアリズム(現実主義)学派は、ホッブズの自然状態の概念を国際秩序の分析に応用している。