ヴォルテール - 寛容と理性の啓蒙思想家

生涯

ヴォルテール(Voltaire, 1694年 - 1778年)は、本名をフランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet)といい、パリの裕福な公証人の家庭に生まれた。イエズス会系のルイ=ル=グラン学院で古典教育を受け、早くから文学的才能を発揮した。「ヴォルテール」はペンネームであり、1718年の悲劇『エディプス』の成功を機に使用するようになった。

1726年、貴族との争いが原因でバスティーユに投獄された後、イギリスに亡命し、約3年間を過ごした。この滞在はヴォルテールの思想形成に決定的な影響を与えた。ロックの経験主義哲学とニュートンの自然科学、イギリスの立憲政治と宗教的寛容に深い感銘を受け、帰国後に『哲学書簡(イギリス便り)』(1734年)を著してフランスの旧体制を批判した。この著作はフランス啓蒙思想の出発点とされる。

以後ヴォルテールは、フリードリヒ大王の招きでプロイセンに滞在し、後にスイス国境のフェルネーに居を定めて、精力的な著述活動と社会改革運動を展開した。ヨーロッパ中の知識人と膨大な書簡を交わし、「フェルネーの総主教」と呼ばれた。1778年、パリに凱旋的に帰還し、同年83歳で没した。

寛容論

1763年に公刊された『寛容論(Traité sur la tolérance)』は、ヴォルテールの宗教的寛容の思想を体系的に展開した著作である。本書はカラス事件を直接の契機として執筆された。プロテスタントの商人ジャン・カラスが、息子の自殺をカトリックへの改宗を阻止するための殺害と誤認され、拷問を受けて車裂きの刑に処された冤罪事件である。ヴォルテールはカラスの名誉回復のために精力的に活動し、最終的に無罪判決を勝ち取った。

『寛容論』においてヴォルテールは、宗教的不寛容がもたらす暴力と迫害の歴史を詳述し、理性と人道に基づく寛容の精神を訴えた。ヴォルテールは宗教的狂信こそが人類の最大の敵であると考え、「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という精神(この言葉自体はビアトリスの要約による)を体現した。この寛容の思想は、近代的な信教の自由と思想の自由の理念の基盤を形成した。

カンディード

1759年に公刊された哲学的コント『カンディード、あるいは楽天主義(Candide, ou l’Optimisme)』は、ヴォルテールの最も有名な文学作品であり、西洋文学史上の傑作の一つに数えられる。本作は、ライプニッツの楽天的形而上学——「この世界は可能な世界のうちで最善のものである」という最善説——を痛烈に風刺した作品である。

主人公の純真な青年カンディードは、師パングロス博士から「すべては最善である」と教えられるが、戦争・地震・疫病・宗教裁判・奴隷制など、この世のあらゆる災厄と不条理を次々と経験する。旅の末にカンディードが到達する結論は、「われわれの庭を耕さなければならない(Il faut cultiver notre jardin)」という有名な一句である。この結末は、形而上学的思弁への批判と、具体的な実践と労働を通じた人間の改善への信頼を表現するものと解されている。

理神論

ヴォルテールの宗教思想の核心は理神論(déisme)である。理神論とは、理性に基づいて神の存在を認めつつ、啓示宗教の教義・奇跡・聖職者の権威を否定する立場である。ヴォルテールは宇宙の秩序と合目的性から創造者としての神の存在を推論したが、教会の教義や儀式には批判的であった。

ヴォルテールにとって、神は宇宙の最初の原因であり設計者であるが、日常的に世界に介入する人格的な神ではない。ヴォルテールは「もし神が存在しなかったとしたら、神を発明する必要があろう」と述べ、道徳的秩序の基盤としての神の観念の社会的有用性を認めた。同時に、教会制度の腐敗、聖職者の偽善、宗教的迫害に対しては「恥辱を踏みつぶせ(Écrasez l’infâme!)」という激しいスローガンのもと、徹底的な批判を加えた。

哲学的方法と思想

ヴォルテールは体系的な哲学者というよりも、理性の実践的な擁護者であった。デカルトの合理主義の方法を評価しつつも、ロックとニュートンの経験主義的・実証的方法を好んだ。ヴォルテールにとって哲学とは、抽象的な体系構築ではなく、偏見と迷信に対する理性の戦いであり、社会的不正義への具体的な介入であった。

認識論においては、ロックの経験論を受け入れ、人間の認識は感覚経験に由来するとした。形而上学的な思弁には懐疑的であり、人間の知性の限界を率直に認めた。ヴォルテールの哲学的貢献は、特定の理論体系の構築よりも、批判精神と寛容の精神の普及、そしてフランス語による哲学的散文の確立にあったと評価される。

後世への影響

ヴォルテールの寛容と理性の精神は、フランス革命の知的基盤の一つとなった。革命後の1791年、ヴォルテールの遺骸はパリのパンテオンに移葬された。その宗教批判と自由思想は、19世紀の自由主義と世俗主義の発展に直接的な影響を及ぼした。また、権力に対する批判精神と言論の自由の擁護は、近代ジャーナリズムと知識人の社会的使命の原型を形成した。

文学的には、哲学的コントの形式を確立し、風刺と理性を結合させた散文の手法は、後世の思想的文学に多大な影響を与えた。ヴォルテールは啓蒙思想を象徴する知識人として、理性・寛容・人権という近代的価値の擁護者として記憶されている。

関連項目