普遍論争 - 実在論と唯名論をめぐる中世哲学の中心問題
問題の概要
普遍論争(Problem of Universals)は、中世哲学を通じて最も激しく議論された形而上学の根本問題である。「普遍(universale)」とは、「人間」「動物」「善」のように、多くの個物に共通して述語される概念のことである。普遍論争の核心は、これらの普遍概念が実在するのか、それとも単に名前あるいは精神の内の概念に過ぎないのかという問いにある。
この問題は、プラトンのイデア論とアリストテレスの形相論にまで遡る起源を持つ。プラトンはイデア(普遍的形相)を個物から独立した実在として主張し、アリストテレスは形相を個物の内に実在するものとして位置づけた。この古代の対立が、中世においてキリスト教の三位一体論や創造論といった神学的問題と結びつくことで、一層複雑で切実な論争へと発展した。
ボエティウスによる問題の定式化
中世における普遍論争の直接的な起点となったのは、ボエティウスによるポルピュリオス『エイサゴーゲー』の翻訳と註釈である。ポルピュリオスは、類(genus)と種(species)に関する三つの問いを提起しつつ、自らは回答を留保した。(1)普遍は実在するのか、それとも精神の内にのみ存在するのか。(2)実在するとすれば、物体的なものか非物体的なものか。(3)個物から分離して存在するのか、個物の内に存在するのか。
ボエティウスはこの問いに対して、アリストテレスの立場を基礎としつつ、普遍は個物の内に存在する共通本性が精神による抽象を通じて認識されたものであるという穏健な解答を示した。しかしこの問題自体は解決されることなく、中世を通じて哲学的議論の中心であり続けた。
実在論
実在論(realismus)は、普遍が精神から独立した実在性を持つと主張する立場である。実在論は、主張の強さに応じていくつかの段階に分けられる。
極端な実在論は、プラトンのイデア論に近い立場であり、普遍は個物に先立って(ante rem)独立に実在すると主張する。シャンポーのギヨーム(1070年頃 - 1121年)が代表的な論者であり、同一の種に属するすべての個体に共通する普遍的本質が実在し、個体間の差異は偶有的な性質に過ぎないと主張した。この立場はアベラールの批判を受けて修正を余儀なくされた。
穏健な実在論は、アリストテレスの形相論に基づく立場であり、普遍は個物の内に(in re)実在するが、個物から分離しては存在しないと主張する。トマス・アクィナスが代表的な論者であり、普遍的本性は三重の存在を持つとした。すなわち、神の精神の内の永遠的原型(ante rem)、個物の内に内在する形相(in re)、そして人間の精神による抽象の結果としての概念(post rem)である。
唯名論
唯名論(nominalismus)は、普遍は実在せず、名前あるいは記号に過ぎないと主張する立場である。
初期の唯名論者として知られるのがロスケリヌス(1050年頃 - 1125年頃)であり、普遍は「音声の振動(flatus vocis)」に過ぎないと主張したとされる。ただし、ロスケリヌスの著作はほとんど現存しておらず、その教説は主に批判者の証言を通じて知られる。彼の唯名論的立場は、三位一体を三つの独立した神と解釈する異端的帰結をもたらすとして、ソワソン公会議(1092年)で断罪された。
最も体系的で影響力のある唯名論を展開したのがオッカムのウィリアムである。オッカムによれば、実在するのは個物のみであり、普遍は精神の内の自然的記号として存在する概念である。個物の外に共通本性なるものは一切実在しない。二つの個物が類似しているのは、共通の本性を分有するからではなく、それら自体が類似しているからである。オッカムの剃刀の原理に基づき、個物の存在を説明するために普遍的実在を措定する必要はないとされた。
概念論
概念論(conceptualismus)は、実在論と唯名論の中間的立場であり、普遍は単なる名前ではなく有意味な概念であるが、精神の外に独立した実在を持たないと主張する。アベラールがこの立場の代表的な論者であり、普遍を単なる音声(vox)ではなく意味を持つ言葉(sermo)として捉えた。普遍概念は、個物の共通の性質に基づいて精神が形成するものであり、恣意的でも空虚でもないが、個物を離れた実在ではない。
ドゥンス・スコトゥスの立場も穏健な実在論と概念論の中間に位置するものとして理解される。スコトゥスは「共通本性(natura communis)」が個物の内に実在するが、それ自体としては普遍でも個別でもない無差別的なものであり、「このもの性(haecceitas)」によって個体化されると主張した。
神学的含意
普遍論争は純粋に哲学的な問題にとどまらず、キリスト教の中心的教義と深く結びついていた。三位一体の教義は、父・子・聖霊という三つの位格が一つの神的本性を共有するという教えであり、普遍的本性の実在を前提とするように見える。ロスケリヌスの唯名論が三位一体に関して異端的帰結をもたらすとされたのはこのためである。
同様に、原罪の教義(アダムの罪が全人類に伝播する)も、「人間性」という普遍的本性の実在を前提とするとされた。普遍的な人間本性がアダムの内に実在し、その本性が損なわれたがゆえに全人類が罪の状態にあるという説明は、実在論的な枠組みを必要とした。このように、普遍論争は倫理学と神学の根本問題にまで波及する射程を持っていた。
近代以降への影響
普遍論争は中世に限定された問題ではなく、近代以降の哲学においても形を変えて存続している。認識論においては、ロック、バークリー、ヒュームといったイギリス経験論者が抽象観念の問題を論じ、唯名論的な傾向を示した。現代の分析哲学においても、ラッセルの記述理論やクワインの存在論的コミットメントの議論は、普遍の存在論的地位に関する問題の現代的な展開と見なすことができる。普遍論争は、形而上学の根本問題として今なお哲学的考察の対象であり続けている。