ヘーゲル - 弁証法と絶対的観念論を体系化した近代哲学の巨人
生涯
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年 - 1831年)は、ドイツのシュトゥットガルトに生まれた哲学者である。テュービンゲン大学の神学校でシェリング、ヘルダーリンと同窓生として学び、フランス革命に強い感銘を受けた。卒業後は家庭教師として生計を立てつつ哲学的思索を深め、1801年にイェーナ大学で教壇に立った。
1807年に主著『精神現象学』を刊行し、ナポレオンのイェーナ入城を「世界精神の馬上の姿」と記した逸話は有名である。ナポレオン戦争後はニュルンベルクの高等学校校長を経て、ハイデルベルク大学、1818年からはベルリン大学教授として活躍した。ベルリン時代には当時のプロイセン国家の公式哲学者とも称されるほどの権威を確立し、1831年にコレラの流行により急逝した。享年61歳であった。
弁証法
ヘーゲル哲学の方法論的核心を成すのが弁証法(Dialektik)である。弁証法とは、あらゆる概念や現実が内的な矛盾を含み、その矛盾を通じてより高次の統一へと発展していく運動の論理を指す。一般に「正(テーゼ)・反(アンティテーゼ)・合(ジンテーゼ)」の三段階で説明されるが、ヘーゲル自身はこの定式を必ずしも用いてはいない。彼が重視したのは「止揚(アウフヘーベン)」の概念であり、対立する二つの契機が否定されながらも高次の段階に保存・引き上げられるという動的な論理である。
この弁証法は、カントの批判哲学における二律背反の問題を創造的に乗り越える試みであった。カントが理性の限界として退けた矛盾を、ヘーゲルは理性の自己運動の原動力として肯定的に捉え直したのである。弁証法は後にマルクスによって唯物論的に転用され、社会変革の理論的基盤となった。
精神現象学
1807年に刊行された『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)』は、ヘーゲル哲学の出発点をなす主著である。この著作は、意識が最も素朴な感覚的確信から出発し、知覚、悟性、自己意識、理性、精神、宗教を経て、絶対知に至るまでの弁証法的な発展過程を叙述する。
とりわけ有名なのが「主人と奴隷の弁証法」である。二つの自己意識が互いに承認を求めて生死を賭けた闘争を行い、死を恐れた一方が他方に服従して「奴隷」となる。しかし、奴隷は労働を通じて自然を変形し自己を形成するのに対し、主人は享受に安住して自立性を失う。かくして主従関係は逆転し、奴隷の意識の方がより高次の自己意識へと発展する。この弁証法は、マルクスの階級闘争論やサルトルの実存主義にも深い影響を与えた。
絶対的観念論
ヘーゲルの体系は絶対的観念論(absoluter Idealismus)と呼ばれる。デカルトの近代的主観性やカントの超越論的観念論を発展させつつ、ヘーゲルは主観と客観、精神と自然、有限と無限の対立をすべて包括する絶対者の自己展開として現実の全体を把握しようとした。
ヘーゲルにとって「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。この有名な命題は、現実がたんなる偶然の集積ではなく、理性(精神)の必然的な自己実現の過程であることを意味する。絶対精神は論理学(概念の自己展開)、自然哲学(精神の外化としての自然)、精神哲学(精神の自己還帰)の三部門を通じて自らを完全に実現する。この壮大な体系は『エンツュクロペディー(哲学的諸学のエンツュクロペディー)』において全体的に叙述されている。
歴史哲学
ヘーゲルの歴史哲学は、世界史を「自由の意識の進歩」として捉える壮大な構想である。『歴史哲学講義』によれば、世界精神(Weltgeist)は特定の民族や国家を通じて自己を実現し、歴史は東洋世界(一人の自由)からギリシャ・ローマ世界(少数者の自由)を経てゲルマン世界(万人の自由)へと進展する。
ヘーゲルは歴史における「理性の狡知」という概念を提唱した。歴史上の偉大な個人(アレクサンドロス、カエサル、ナポレオンなど)は自らの情熱や野心に従って行動するが、その行為は無自覚のうちに世界精神の目的に奉仕している。個人の主観的意図を超えた客観的な歴史の論理が貫徹するという洞察は、古代ギリシャのストア派の運命論とは異なり、歴史に内在する合理性と進歩を強調するものであった。
法哲学と国家論
『法の哲学(法哲学綱要)』(1821年)は、ヘーゲルの実践哲学・政治哲学の主著である。抽象法(所有権・契約・不法)、道徳性、人倫性の三段階を経て、家族・市民社会・国家へと弁証法的に展開する。ヘーゲルにとって国家は人倫の最高形態であり、個人の自由が客観的な制度の中で実現される場である。
市民社会は各人が自己利益を追求する「欲望の体系」であるが、同時に相互依存の関係を生み出す。国家はこの市民社会の矛盾を止揚し、普遍的な自由と理性を実現する倫理的共同体とされた。この国家論はマルクスによる批判の出発点ともなった。
主要著作
- 『精神現象学』(1807年) — 意識の弁証法的発展を叙述するヘーゲル哲学の出発点。
- 『大論理学』(1812-1816年) — 存在論・本質論・概念論の三部から成る弁証法的論理学の体系。
- 『哲学的諸学のエンツュクロペディー』(1817年) — 論理学・自然哲学・精神哲学を包括する体系の概要。
- 『法の哲学』(1821年) — 法・道徳・国家の弁証法的展開を論じた実践哲学の主著。
- 『歴史哲学講義』(死後刊行) — 世界史を自由の意識の進歩として捉える歴史哲学。
- 『美学講義』(死後刊行) — 芸術を絶対精神の感覚的表現として論じた美学体系。
後世への影響
ヘーゲルの思想は、19世紀以降の哲学に計り知れない影響を及ぼした。ヘーゲル学派は右派(保守的なヘーゲル解釈)と左派(青年ヘーゲル派:フォイエルバッハ、マルクスなど)に分裂し、左派からは唯物論的な社会批判の思想が生まれた。マルクスの唯物史観はヘーゲル弁証法の批判的継承であり、20世紀の世界史を変えた。
20世紀にはコジェーヴのヘーゲル講義がフランス現代思想に大きな影響を与え、サルトル、メルロ=ポンティ、ラカンらに波及した。現代哲学においても、ヘーゲルの承認論はホネットの社会哲学に継承され、弁証法的思考は批判理論の基盤であり続けている。