自由意志論 - 決定論と自由をめぐる哲学的論争
自由意志の問題とは
自由意志(Free Will)の問題は、人間が真に自由に選択・行為することができるのか、あるいは行為は先行する原因によって必然的に決定されているのかを問う、哲学の最も古くかつ根本的な問題の一つである。この問題が重要であるのは、自由意志の有無が道徳的責任、法的責任、賞罰の正当性、そして人間の尊厳の根拠に直接関わるからである。もしすべての行為が物理法則によって決定されているならば、人間を道徳的に称賛したり非難したりすることに意味があるのだろうか。
決定論
決定論(Determinism)は、宇宙のあらゆる出来事が先行する原因と自然法則によって必然的に決定されているという立場である。ラプラスの悪魔の思考実験が示すように、宇宙のある時点におけるすべての粒子の位置と運動量を知り、すべての自然法則を適用できる知性が存在すれば、未来のあらゆる出来事を完全に予測できる。決定論が正しいならば、人間の行為もまた脳の物理的状態と自然法則によって決定されており、真の意味での「選択の自由」は存在しないことになる。
ストア派は、宇宙を貫く理法(ロゴス)によって万物が必然的に支配されるという宿命論を唱えた。しかしストア派は、外的な出来事は必然的に定められていても、それに対する内的な態度(判断・同意)は我々の自由に属するとして、決定論と道徳的責任の調和を試みた。
両立論
両立論(Compatibilism)は、決定論と自由意志は両立しうるという立場である。この立場によれば、自由とは因果的決定からの解放ではなく、外的な強制や拘束の不在を意味する。すなわち、行為者が自分の欲求や意図に従って行為し、外的な強制によって妨げられていないならば、その行為はたとえ因果的に決定されていても「自由」であると言える。
ヒュームは両立論の代表的な擁護者である。ヒュームは自由を「自分の意志の決定に従って行為する、あるいはしない力」と定義し、この意味での自由は因果的決定と完全に両立すると論じた。ヒュームにとって、自由の反対は必然ではなく強制である。現代の両立論者としては、フランクファートの階層的欲求理論が重要である。フランクファートは、一階の欲求(ある行為をしたいという欲求)だけでなく、二階の欲求(ある欲求を持ちたいという欲求)に注目し、自由意志を二階の意欲と一階の意志の一致として定義した。
非両立論
非両立論(Incompatibilism)は、決定論と自由意志は両立しえないという立場であり、二つの方向に分かれる。
硬い決定論(Hard Determinism)は、決定論が真であり、したがって自由意志は存在しないという立場である。この立場では、道徳的責任の概念も根本的な修正を迫られる。
リバタリアニズム(自由意志論的非両立論)は、自由意志は存在し、したがって決定論は少なくとも人間の行為に関しては偽であるとする立場である。カントは、自然界の因果的決定論と人間の道徳的自由を、現象界と物自体(叡智界)の区別によって調停しようとした。道徳法則に従う自律的な意志は叡智界に属するものであり、自然法則による因果的決定からは独立しているとされた。
実存主義と自由
サルトルは「実存は本質に先立つ」というテーゼから、人間の根源的な自由を主張した。人間は前もって定められた本質を持たず、自らの選択によって自己を創造する存在である。サルトルにとって、人間は「自由であることを宣告されている」のであり、自由を回避することそのものが不可能である。自由を否定し、状況に流されて生きることは「自己欺瞞(mauvaise foi)」にほかならない。
ニーチェもまた、伝統的な自由意志の概念を批判しつつ、独自の自由の思想を展開した。ニーチェは自由意志を形而上学的な虚構として退けつつも、自らの運命を全面的に肯定する「運命愛(amor fati)」と「力への意志」による自己超克の理想を掲げた。
現代の自由意志論争
現代の自由意志論争では、神経科学の知見が重要な論点となっている。リベットの実験は、意識的な決断に先立って脳活動(準備電位)が生じていることを示し、自由意志の実在性に疑問を投げかけた。この結果は、意識的な意志が行為の原因ではなく、脳の無意識的過程の副産物に過ぎない可能性を示唆する。
一方で、両立論の立場からは、自由意志の問題は因果的決定の有無ではなく、適切な仕方で行為者の理由や価値観に応答する能力の有無として再定式化されるべきだとする議論が展開されている。自由意志の問題は、形而上学の因果性の問題、倫理学の道徳的責任の問題、認識論の自己認識の問題を横断する、哲学の根幹に関わる問いであり続けている。